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カテゴリ:きのこ目の日本史
きのこに導かれて、地蔵の旅を始め、それに十一面観音が加わり、かれこれ4年前の月日が流れた。 奈良時代から江戸時代までの時空を行きつ戻りつして今日まできてしまった。 十一面観音とのかかわりで良弁から筆を起こすべく取り組んでいたが、こちらは伝承ばかりが多く、資料的に空白部分が多すぎなかなか手ごわいものがある。 新羅・秦氏・十一面観音・鵜・山林修行者・行基のネットワーク、などのキー・ワードで目下調査進行中。 この正月、行基寺として名高い地蔵院(椿寺)では、宋阿の墓とゆくりなく対面。 「蕪村が讃岐へ赴く際に北野天満宮に詣でた」という記事に接し、長い間蕪村と北野天神との関係が不明だったが、その謎がここにきてようやく解けた。 蕪村の親代わりで俳諧の師匠でもあった夜半亭・宋阿の墓に報告にいったのだ。 北野天神に寄ったのはそのついでだったのだろう。 京都・奈良には万に近い寺社があり、こんな重要なことも偶然に頼るようでは、まだまだ見落としも多々あるだろうが、そろそろ町絵師としての蕪村が江戸の第2のバブル期を如何に生きたかに迫る時が来たように思える。 貧乏暮らしに終始した蕪村が、究極的に目指したものは、世阿弥のいうところの<真(まこと)の花>だったと思うが、彼はやりたかったことすべてをぎりぎりのところでかろうじてやり抜いて果てた。このバイタリティとメンタリティをこそ、私は言葉にして伝えたいと思っている。 同時代を生き、近所にいたライバルの若冲、大雅、応挙との距離の取り方にもまだ模糊としたところがある。 また、蕪村は体系的に中国の山水画を把握していた気配はないが、とりあえず中国における山水画の流れを目下急ピッチでまとめているところだ。
椿寺の十一面観音と伊丹の昆陽寺の地蔵院から移されたと伝えられる地蔵。こちらの十一面観音の頭部の観音がきのこ型なのは何とも面白い。
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最終更新日
2015年03月17日 18時28分55秒
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