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カテゴリ:きのこ目の日本史
この界隈で見落としてはならないのは、興福寺でも春日大社でもなく、開化天皇陵だ。 古代王権の中でも特異な存在の開化天皇は、観光客でにぎわう三条通りに面して広大な<はてなスポット>を、黙したまま口を開けている。葛城王国からもっとも辺境の地であったワニ氏の支配する奈良盆地の北の果てに宮居を築いた開化天皇は一部の学者からは亡命政権といわれてきた。
開化天皇陵に隣接する今辻子通りに面した町工場だが、不謹慎きわまりなくて恐縮だが、OUT of PLACEと絵本とコーヒーのパビリオンを出てきてすぐのところでゆくりなく遭遇したので、野外のアート作品を展示していると錯覚したのだが、火事跡とわかって驚いた次第である。ちょっと視点がずれると現実が違ってみえる好例だ。 よく見てみると、両隣りの人家も類焼はまぬがれたものの、そこここに被害の痕跡が残っていて、この通りを歩いて来て、溢れるほどの荷物を玄関先で整理している隣家の人に脳天気にも道を聞くと親切に応えてくれていたが、それどころではなかったのだと思い返してみて実にすまない思いをした。
この界隈には、サキ草の祭を今につたえる三輪山の摂社である率川神社、今は饅頭の神様とされている渡来系の神を祀った漢国神社が取り巻くように建てられている。 奈良も京都も大阪も異なる時空が層を成してうずたかく堆積しており、そこに残存する歴史的建造物がそれぞれオーラを発していて、それを解きほぐしながら歩くのがいつしか僕個人のひそかな楽しみとなってきたので、このあたりは折に触れ散策してきた。
おまんじゅうの神様となった漢国神社
祭神がそのまま地名となって残る子守町の率川(いざかわ)神社
いずれ、これらのその時々の印象記をつないでまとまった考えを打ち出したいと思っているが、とりあえずは寄り道人生を続けている次第。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年09月24日 04時06分00秒
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