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カテゴリ:きのこ目の日本史
夜の顔のDさんが「西鶴のお墓みてきました」と言ったので、いてもたてもいられなくなって、昼休みを利用して、あらかじめ見当をつけていた西鶴の墓所の在り処に飛んでいってきました。 それは谷町筋からひとつ東の上町筋の上本町西4の誓願寺境内にありました。 砂岩製で長い間不明だったものを幸田露伴、あるいは朝日新聞の記者・木崎好尚が発見したと言われ、中央には仙皓西鶴 左右の献花筒には昭和8年8月10日建 水盤の腹には上方郷土研究会と読める文字が。 この墓は、元禄六癸酉年八月十日 下村鶴平(版元か?)、北条団水(西鶴を慕った弟子)が建てたものを原形を残して補修したものと思われます。 墓碑の傍ら向かって右側には 黒御影の文学碑が建てられており、西鶴直筆の「鯛ハ花ハ見ぬ里もあり今日の月」と刻まれています。 群を抜いて非凡な才能をさらりと示し、人生五十年というのに二年も余計に生きてしまったわいという辞世を残してこの世からとんずらしました。 団水による最初の遺稿集の第1弾は、その没年の冬には早々と『西鶴置土産』(5巻5冊15話)として出版され、その巻頭に西鶴の肖像画とともに、以下のような語り口で辞世の句が添えられています。これを見ても、西鶴は俳諧師として自身の生涯を貫いたことがわかります。 人間五十年の究(きはま)り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや「浮世の月見過ごしにけり末二年」元禄六年八月十日 難波俳林 松寿軒西鶴 寛永19年(1642)に生まれ~元禄6年(1693)に没した西鶴は、本名を平山藤五といい、難波談林俳諧の雄でした。この言葉の魔術師は、俳諧というものの醍醐味を極限まで推し進めて、その息の根を止めてしまいました。その没後、すでに300年余。俳句は、退行しつづけて益々濁りきっています。
寺門裏には、隠れるように武田麟太郎の「井原西鶴」より抜粋した碑文が置かれていますが、気付かずに素通りする人の方が多いのでは。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年11月02日 21時35分43秒
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