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カテゴリ:きのこ目の日本史
江戸で没した蕪村の師・宋阿の墓は江戸にあるはずだが、京都の地蔵院(通称椿寺)にもある。この不可解な事実を調べるため再度・嵐電・北野白梅町近くの地蔵院を訪ねた。 碑の後部にある碑文を調べるためである。 そこには宋阿時世の句「こしらえてあるとは知らず西の奥」と俳諧寺可焉書建之とあり、可焉という人物がこれを建てたことになっている。寺の女性に聞いたところでは分骨したとかそうした性格のものではなく、京都の門人たちの心の拠り所として建てたらしい。そして可焉という人物については、まったく不詳とのこと。
地蔵院は通りから見ると、こじんまりしたたたずまいだが、中へ入ると意外に広いことにまず驚く。本尊は十一面観音。
寺の創建は古く、天平時代。聖武天皇の勅願により神亀3(726)年、行基が伊丹の昆陽池のほとりに一寺を建立し地蔵院と号したことにはじまる。平安時代に衣笠山の南に移転するも室町時代の明徳2(1392)年、内野の合戦で焼失。 足利義満は当院の荒廃を惜しんで、金閣寺造立の際にその余材で仮堂を建て地蔵菩薩を安置した。そののち秀吉の命により天正17(1589)年、現在地へ移され今日に至っているという。
地蔵院の名の通り、境内にはさまざまな地蔵像が安置されている。
境内の墓域には近在から集められた野仏やキリシタンの墓もあり、地蔵堂脇の小祠に祀られた一石六地蔵は化粧地蔵だが、仏相にほど遠い生身の人間の顔そのものに彩色されており、不気味だ。
この寺の名物は、昨年1月にここで紹介した通りの五色八重散椿。 今年は花時に出合えるかと思いきや、例年は4月はじめの桜のころが盛期だとか。しかし、温暖化で2ケ月近くちらほらと咲き始めたとのこと。おかげで開花と散華の様子が想像できたのは幸いだった。
上が昨年1月11日の椿。蕾も固い。下が本年2月11日の椿。
花がちらほらとついて、苔の間には花弁も散り始めていた。盛期にはさぞ壮観であろう。
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最終更新日
2016年02月12日 23時10分02秒
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