夢みるきのこ
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仕事の無い日は、近頃は籠って読書に時間を取るようにしている。 とはいっても、本を開けばどろんと睡魔に襲われるので、行きつ戻りつして。こういうと知人たちは決まって「1冊の本を数倍楽しんでいるのだから贅沢の極みでんな」と言われるのでうれしいような悲しいような。 僕の引きずってきた問題意識は、思春期の10代の頃からほとんど変わっていないので、60余年にわたって買い集めてきた本の背中を見る度にムラムラとその気になってひもといてしまうので、いまだに道草ばかり食っている。去年暮れあたりからの発心も、せめて生きている間に買い求めてきた、その100分の1冊くらいは読んでしまってからあっちもんになりたいと願っているだけでさもしさが先行している。 しかし、松岡正剛はすごいの一語に尽きる。素早く読んで、よくあれだけ覚えていることだ。虚空蔵菩薩求聞持法を空海からさっと伝授されているのかも。 昨日昼飯の合間にひも解いてから、夕方以降まどろみの合間に行きつ戻りつ読み始めて、虜(とりこ)になっている書物が昨年末に出された岩波の「日本問答」だ。新書マニアの僕ではあっても、岩波は知の権威臭さが鼻について常々敬遠しているのだが、時々は買い求めざるを得ないことが最近往々にして増えてきた。加齢のせいかもしれないと警戒をおこたっていないのだが、である。 この書は江戸事情に詳しい田中優子との対談形式にまとめられていて、彼が繰り返し述べてきた日本文化のデュアル・スタンダードが具体的にいかなるものかが手に取るように分かって溜飲を下げている。 私の文化戦略と不思議なほどシンクロするのもやめられないとまらない理由のひとつである。また、読み終わったら読後感想文を添えてファンレターを書こう。今日は本書と平行して朝からアジア・宗教文化研究所代表の久保田展弘のライフワークの集大成ともいえる『役行者と修験道』を一気に読んでしまった。といってもネンネンコロリン、ネンコロロの状態でのことだから、松岡正剛の足元にも及ばないが。 しかし、今『日本問答』的な手法で我が国の宗教文化の根っこのところをなんとか表現できないかと考えて毎日悪戦苦闘しているので、この平行読書はとても参考になった。もうそれを考えはじめて3年目になるがいまだにふさわしい表現方法が見いだせていないので、一行たりとも満足のいく書き出しにはなっていない。僕にはぼくなりに辛いものがあるのだ。 そのうたたね読書の合間にBGMとして聴いているのが、70年をはさんで登場していたフランソワーズ・アルディだ。ユーミンの歌にも「私のフランソワーズ」ってのがあったと記憶するが・・・。 そして1994年末に入手して1995年の1月以来私の中で封印してきた松井慶子の『Doll』も20数年ぶりに封印をといて聴いてみた。ボサノバの古典的作品「思い溢れて」のように当時と同じあふれるものを感じながら聴いた。こちらにも辛いものがある。音楽、とりわけジャズが常に心に響いていないと生きた心地がしなかった青春時代。それがここ数年来、時折こだまのように届くだけで、あえて自分から求めなくなっているのにはつらいものがある。懐メロばかりのジャズにうんざりして、いつしか、What's new!。Something new!。に不感症になってきた自分に気づくばかりだ。 ジャズもどんどん進化していることは、時折ジャズ番組以外のところで拾い聴きするだけで十分伝わってくる。とりわけ、パーカッション、リズムセクションの進化には驚くべきものがある。 ひょっとすれば、ユーミンが「私のフランソワーズ」を歌っていた頃から僕の成長はとまっているのかもしれない。 ちょっとそんな気がする今日この頃である。 明日はお彼岸。娘の友人が近くまで仕事で来るというので会いに行ってくる。
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