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カテゴリ:きのこ目の日本史
桜井から更に近鉄で宇陀方面へ向かうと三輪山の奥処(おくが)へと入っていく。その奈良盆地との境にあるのが近鉄朝倉駅で、ここは聖徳太子の時代に蘇我の血を引かない古代最大の忍阪王統があったところ。額田王や鏡王女を育てた額田部氏の居住地がここで、地元の人は「おっさか」と呼んでいる。 神籠石の辻を山辺に向かうとこの細流れにそって、ひっそりと、しかし、威厳を放つ舒明天皇陵がある。 春浅き頃たどるとこの細流れに冬いちごがたわわに実っており、それを口に含みながらの逍遥となる。10分も歩くと山里の風景が一変、舒明天皇陵が見えてくる。なかなか見事な眺めだ。当時は成り上がりものの蘇我氏に対し「田舎もんの蘇我氏なにするものぞ」といった気概を持っていたと思われる皇統の姿が浮かび上がってくるのを覚える。 しかし、本当のところは、蘇我氏の系統は、我が国の外交を一手に引き受けた葛城氏につらなる、この時代にはめずらしいずば抜けた都会もんで同じ都会もんの藤原氏のご一統には煙たすぎる存在だったようです。 舒明天皇陵への小径の更に奥には鏡王女と大伴皇女の墓がある。 山畑の脇には水仙がひっそり花をつけていた。 鏡皇女は藤原氏や天智天皇と恋歌を交わしたほどの才女である。大伴皇女は堅塩姫(きたしひめ)の娘で蘇我系の推古天皇、聖徳太子と忍阪王統をつなぐ人材だ。この<つゆおとなうものなき>山里に古代史のドラマが息づいているのを辿るのは、わたしのひそかな愉しみのひとつだ。 ひそかな愉しみといえば、駅からここへ来る途中に見た玉津島明神。誰だったか忘れたが、貴紳の産湯址だとされ、ここには丹生都比売(にふつひめ)と衣通姫(そとおりひめ)が祀られている。衣通姫は、飛びぬけた美貌に恵まれ、黙って坐っているだけでも着物を通して(=そとおり)、たまんないオーラ、今どきの言葉ではフェロモンを放っていたという。そのため、皇后から妬みを受け不遇の人生を送ったという。私にとっては、古代史の中でももっとも会いたい女性の一人である。 私のその折りの目的の中心は、おっさかのたかまどやま・石位寺の必見といわれてきたわが国最古の見事な薬師三尊石仏だった。 飛鳥・奈良初期の頃刻まれたという石仏だが、本当かなと思えるほどの見事な保存状態で驚いた。しかも、本当に無造作に置かれていて、このお堂の鍵を開けていただいた区長さんは、「写真撮影」は基本的にはダメですが、フラッシュを焚かなければ撮ったところで傷むわけでもなし。どうぞどうぞと言われた。この時は区長さんが自宅に居合わせて本当にラッキーだったが、通常は奈良市観光課へ電話を入れて、そこ経由で区長さんが在宅であればこちらに出向いてもらいカギをあけてもらう段取りらしいので、石位寺へ行かれる方は電話予約しておいたほうが安心かも。私にとってはここ忍阪は、おっさかべ=刑部に通じる天皇紀のあけぼの時代の鍵を握るとても重要な地点。さらに駅からすぐの忍阪坐生根神社(おっさかにますいくねじんじゃ)を始め、奥三輪から宇陀にかけては、かんなび山を神体とする神社が目白押しなので目がはなせないところだ。 この区長さんは、そのあと自家用車で額田大王が造立したという草壁皇子慰霊のための粟原寺跡や玄道を潜り抜けて石棺が見れる古墳などを案内してくれた。その折のことは「月のしずく」の墓マイラー編で詳しく述べたので省略する。 しかし、何の目的も持たずにふらりと来ても決して後悔しない山里だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年12月11日 11時11分58秒
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