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夢みるきのこ

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2021年01月05日
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 私は小さなシェパードのような柴犬のクロちゃんを先生として育った。いわゆる柴犬の常識とはことなり、赤ちゃんのときは真っ黒で和犬のイメージがまったくなかったので、黒ちゃんと名付けた。大きくなるにつれて褐色がまじりはじめ黒褐色の美女となった。血統書つきだとくれた人がいってたが、彼女は自由奔放に恋をし、ずいぶん毛並みの違う子供をつくってケロっとしていた。私の身近な先生はあとにもさきにもこのたぐいまれな風変わりな柴犬で美女のクロちゃんだけである。
 山旅生活の中で突如「きのこの山」に遭遇して、はじめて私が一生を手本とすべき師は、地球最後の征服されざる野生生物・微生物であることを確信した。クロちゃんは人間生活にまみれ地球唯一の優占種となったヒト種に同調しながら野生を貫き、微生物・菌類は、ときどきその実在をほのめかしながら<野生とは目には見えない生命の原初の形から連綿と導き出されてきたものである>ことを示しつづけてきた。「なにごとのおわしますかはしらねども」と西行が語ったサムシング・グレートとは、私にとっては野生そのものであり、微生物そのものなのである。
 ​野生生物にとっては、生きること自体がストレスまみれの全身ウツ状態であるので、生きるのに精いっぱいで、さらにウツになるなんてことはありえない。鬱とは、言葉をもった人間が便宜上生み出した精神のカンフル剤なのである。
 さて、そんな私が奇跡的にのうのうと生き永らえて今日までやってきて、言葉をもってしまった人間にとってもっとも大切なのはただひとつと確信した。それは「自分にとって詩とはなにか、詩人であるとは何か」を問い続けることであった。
 かな文字とやまと言葉を創出した列島人にとって、詩とは和歌であった。それを室町あたりから数百年かけて庶民の詩として再構築したものが俳諧である。31文字の和歌の5・7・5の上句と7・7の下句を2人で詠み分ける面白みを発見し、それを一幅の絵巻物と見立てて、行きて還らぬ連歌として発展させた。
 その連歌の巻頭を飾る5・7・5が発句(ほっく)である。それを、また300年以上もかけて貴族生活から庶民生活の哀歓を詠む詩として完成させたのが連句である。形式はそのままに内容をより底辺の人たちの景色に近づけたのである。そのそもそもの伝統は万葉集に防人の歌、読み人不詳の歌などが納められていることにはじまる。
 列島人は上昇意識のみならず、下降意識もいにしえの昔よりもってきたのである。それは万物に命があり、神にも鬼にもなるというアミニズムの精神が根底にあるからだろう。
 江戸時代には俳諧の発句は、紙・筆が高価であった時代に、その体感的なリズムが記憶にとどめやすいため、読み書きの基本教材となり、身分は低くても立身出世の手立てとなったので大流行したのである。列島人の識字率が抜群に高いのはそのせいである。
 その俳諧の発句を独立させたものが俳句である。かくして、ようやく庶民の心のうつろいを言葉につかの間とどめ得るもっとも手軽でもっとも奥深い詩形を庶民がはじめて手に入れたのである。これは素晴らしいことであった。その5・7・5を基本とする短詩には本来、俳句とか川柳とかいった区別はなかった。今もこれからもそうである。しかし、私は20歳の時に俳句に目覚めて以来、ここに大きな陥し穴があることを50年以上もみつめてきた。それを以下に述べる。
 アートとは、「術」であり「芸」である。それぞれの心に去来するつかの間の幻影や感動を受け止め、目に見える形にするのが
術(技術)であり、芸(型)なのだ。
 その際、問われなければならないのは、そこに「詩」があるかどうかだけなのである。それを常に問い続けることこそが芸術であり、常に詩の可能性を追求する人こそが芸術家なのである。天賦の才に恵まれた少数の人は別にして、庶民にちょっと毛が生えただけの大多数のものにとって「あるがまま」の存在は「詩」からもっとも遠い。それに無自覚な、すなわち、自らの庶民性に無意識のまま表現してよしとする負け犬の遠吠えのような時事俳句や放言を私がとりわけ嫌うのはそのためである。政治批判にも「詩」は必須であると考えるからである。
 だから、私は自他につねに「詩」を問い続ける態度を「ちょっと背伸び」という言葉で表現し、口を開けば周りの人たちに勧めている。
 芸術は、投機蓄財の手引きとして画商が決めるものではないし、芸術評論家や文芸評論家が権威付けするものでもない。
民藝にも、美術館に並ぶ評価の定まった芸術作品にも、商業誌がよいしょする偉い俳人や作家の作品にも、誰にもみせることのなくひそかに綴られる日記にも共通してあるものだと考える私にとって、唯一の価値基準は、そこに「詩」があるかどうかだけなのである。
 きのこと発酵文化の飽くなき追求を続ける「月のしずく」は、人間社会という、すくいようのない「非詩」の世界に「詩」を見出していくきのこ目をもった人たちの記録なのである。





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最終更新日  2021年01月05日 11時49分26秒
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