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カテゴリ:きのこ目の日本史
平城京遷都の数年前、当時洛外の原生林であった東山に行基が天地院を造立、江戸時代あたりまで、その所在地の地図が残っていたというので、数年前の冬の一日、東大寺二月堂から天地院の所在を確かめに訪ねた。 まずは二月堂直下の行基堂へご挨拶。 行基堂と二月堂の間には開山堂があり、良弁が祀られている。光明皇后の庶民救済施設の湯殿や辛国社もあり、東大寺でももっとも重要なトポスである。 国賊であった行基とどこの馬の骨ともしれない一優婆塞の良弁が、のちに「力の行基、知の良弁」と呼ばれるようになるが、そこには激しい生の燃焼があった。「なにが彼らをそうさせたのか」私の古代史への興味はその一点に絞られてきた。 正倉院から二月堂の脇を通り若草山のドライブウェイの途中に抜ける道が続いている。そのあたりがかっての天地院のあったところとされる。院とはいえ塔を備えた大伽藍で、行基がこの山奥にそんなものを遷都に先駆けて造立した理由を知りたくて訪ねたのだ。 山地に入るとこのあたりと見当をつけて目を皿のようにして雑木林の中を上り下りして礎石らしいものの所在をたずねたがニオイアシナガタケ、チシオタケ、チョウジチチタケ、マンネンタケ、ドクベニタケ、シロカイメンタケなどの豊富なキノコと出会ったものの天地院の探索は、全くの徒労に終わった。 若草山へ通ずる斜面には、おびただしい瓦がれきの山が方々にうずたかく積まれており、あたり一面、東大寺周辺の寺院の廃材捨て場の様相を呈していた。そんな中で礎石探しはまずむずかしい。 現二月堂から三月、二月堂の辺りにはかって良弁が営んだといわれる山坊があり、良弁はそこを拠点に春日奥山から笠置に抜け、琵琶湖を巡る山々を跋渉し、平城京を含む難波、紫香楽の三都構想の人的ネットワークを構築していったので、午後からはその足跡をたどって花山から春日原生林の中を散策して、とっぷりと暮れてから下山した。 若草山頂上には全長103m、4世紀造立の被葬者不詳の鶯塚古墳がある。 夏場の春日奥山の草地を行くと必ず蛭(ヒル)に襲われるので、真冬にしたのはそのためだったが、正解だった。 この春日奥山では、冬にはめずらしいウスタケの新鮮な個体が認められた。そして、こうしたきのこの呼び声に誘われながら、しっかりと良弁と行基のその心の行方をたしかめえた一日となった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月08日 11時05分11秒
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