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カテゴリ:きのこ目の日本史
くえ彦神社あたりから眺めた三輪山。 金屋石仏、海石榴市観音堂あたりから磯城宮跡、大神神社を経て、狭井神社のあたりまでが、古代三輪王権の所在地とされている。三輪王権の実在は、纏向の古代巨大都市の成立と軌を一にしており、それが卑弥呼の時代と重なることから、纏向こそが邪馬台国とする学者も多い。しかし、おそらくそれは違う。 この三輪山麓は古来太陽神信仰の山であった。その痕跡が大神神社手前の御子の森にある神坐日向神社(みわにますひむかじんじゃ)である。三輪山頂上の高宮神社(こうのみやじんじゃ)と入れ替わっているが、もともとはこの社の神が三輪山頂の鎮座していた。 狭井神社の本殿脇より三輪山への登攀口はある。この山には三つの磐座群があり、山頂への道はかって登ったおりには雲母片をちりばめたような神々しい雰囲気に満ちていた。1990年代に1度、2011年、2013年、そして2020年初冬にトライして参拝しているが、2020年はコロナ禍で参拝受付を正午で打ち切ったため、タッチの差で登攀できずじまいとなったが、本年2月に再トライする予定。 狭井神社の三輪山登攀口。パワースポット流行りの昨今だが、ここは我が国の歴史のはじまりを告げる歴史遺産としてのほうが重要である。太陽神が男性から女性へ変わり平城京遷都にともない、太陽信仰のかんなび山自体がが中臣氏によりやがて春日山へと移行していく経緯を語り続けてきた山なのである。 この狭井神社の花鎮祭と東大寺周辺の開化天皇陵脇にある率川神社の祭は三輪王権に早期より従った有力豪族の春日氏と深くかかわっている。 この春日氏の背景の氏族たちが琵琶湖を介して若狭、丹波とつながってきたと私は考えている。若狭とその隣の三国は、わが列島史の中ではとても重要な役割を果たしてきた。それは気比神社があることでもわかる。ヤマト朝廷の東国とされた北陸道への最前線基地だからだ。愛発(あらち)の関がここには置かれている。 中臣氏が押さえた春日山と枚岡神社はレイライン上にあるが、近鉄石切駅にほど近い善根寺には、日下社(くさかしゃ)と元春日社ともいえる春日神社が残っていて、そもそもの太陽信仰が春日大社建立以前から営々と続けられてきたことを物語っている。 生駒山は蘇我氏へとつらなる葛城氏の本拠地で、春日氏も天皇家と同等の豪族であり、やがて駆逐される宿命をもっていたと思われる。 我が国の政治史は、今の世からは信じがたいが、シャーマニズムと深くかかわっており、政事をまつりごとと読ませるのもその名残りである。 これらを明らかにすることで私たち現代の列島人の無意識な心の動きそのものをも解明できる宗教文化総体にぶつかることになると私は考えている。 次32号の「月のしずく」では、三輪山にまつわる物語に踏み込みたいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月13日 17時15分01秒
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