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カテゴリ:マダラーノフの独り言
三輪山ふもとで古えの昔、歌垣が行われ、交易でにぎわった海石榴市のあとは、今は小さな観音堂となっている。 ここは、いつ訪ねても花が供えられ、幾たりかの村人と出会う。出会った人に挨拶をすると、この場所を常に清潔な状態にするために町内の人たちが当番で毎日掃き清め、閼伽水を替え、花を供えていますとの言葉がかえってくる。我が国は縄文以来、科学万能の今日まで、呪(じゅ)の伝統に支えられてきた世界でも稀な国なのだ。 「呪」とは「のろう」と読ませているが、「のる」が原義で、だれの手助けも得られない弱者やしがない庶民の魂の叫び(のる行為)そのもの、「祈り」そのものである。 御堂の格子の隙間から観音堂の中をのぞくと、地蔵と観音の2体がほのみえる。 アウシュビッツでは数百万というユダヤの人たちが、祈りを捧げながら殺されていった。祈りが救いにつながることは極めてまれではあっても祈らざるを得ないからそうしたのだ。 しかし、私たち庶民に祈る以外にどんな手立てがあるというのか。それをわが列島人は縄文以来の人知を超えた大いなる偉大な何かに遭遇した際に、思わず手を合わせて祈ってきた。 しかし、今回のコロナ禍では宗教界全体が公務員さながらに為政者に協力するとして異口同音に祈りの場を閉じると公言し、それに何の痛みももたない事態が露呈した。 宗教人が祈りの非力さを自ら認めているのだ。こんな愚行が常態とされるような社会はいまだかって我が国にはなかった。 今こそ祈るという根源的な信仰の力を取り返す機会だというのに、まったく哀れ以外の何物でもない。 神仏は、宗教や哲学以前に、そもそも疫病をはじめとする目には見えず猛威をふるう脅威に対し、その鎮静のための施設として崇敬を集めてきたのではなかったか。 祈りが通じる通じないにかかわらず、神域、寺苑の結界は決して閉ざすべきではない。なぜ、そんなことすら忘れてしまったのか。これでは世も末と笑われてもしかたがない。自身が神仏の仲介者として氏子や講中、檀家の人の無病息災を祈る以上に、その祈りの向けられるまさに救われなければならない人たちに対して、その祈りの場を閉じるべきではない。 そして、ともに同じ場で心を合わせ手を合わせて祈ることだけが宗教者のつとめではないのか。そんな宗教人としての自らのつとめを否定してしまっては、神も仏もないではないか。 私は迷信を信じるものではないが、祈りは誰からも見捨てられた弱者の最後の手段なのだ。それを断つような行為を神官、僧侶が率先してすべきではない。猛省をうながしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月14日 15時30分21秒
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