|
カテゴリ:きのこ目の日本史
滝坂道を登り詰め、ドライブウェイを横切り少し柳生側へ下った谷筋には、今日聖人窟と呼ばれている石窟がある。その谷へ降りる取っ付き口の映像。この日は酷暑も極まった感のある過乾燥の日であったが、石窟手前の山道で2mあまりあろうかと思われるヤマカカシと遭遇した。 三輪山の神奈備信仰は裾野から山岳を遥拝する形であった。しかし、仏教伝来以降、我が国古来よりの神々の世界に超越すべき仏の世界を確立するために官許の僧侶とは別の無認可の僧侶、すなわち優婆塞たちによる山中他界に分け入る修行者が次々と現れてくる。それがのちに山伏と呼ばれるようになる各地の山岳修験者たちを育てていく。三輪山に初期王権が支配を広げる3世紀から随分下った平城遷都後の奈良時代には、春日奥山は平地寺院と山林を結ぶ祈りの場が次々と開拓されていった。本来は鳥葬、風葬の場であった洞窟を利用したと思われるが、そこに彩色を施した見事な石仏たちの彫刻が刻まれている。 春日大社の南東側を縫って春日山を経、柳生街道へと抜ける滝坂の道の周辺にはこうした石窟が散見される。私は、良弁はじめ南都の山林修業者たちが諸国へ通じるこの峠を越える道筋を探るために何度も往来したが、平地寺院のすぐ近くの山林にこうした素晴らしい祈りの場があることに驚いたものである。今回の図像は2012年8月の真夏の春日奥山のものである。 この聖人窟には、極彩色の毘盧遮那仏を中央に、十一面観音、薬師如来が脇侍として祀られている。 この三尊形式は特異なものとされるが、鑑真上人が唐招提寺でお祀りした三尊形式がこれと同じであったというから奈良時代には、ごく自然な配置であったのかもしれない。 私は、良弁と対話を重ねるようになって、十一面観音がいたる所に顔をのぞかせるようになった。 この十一面観音は、とても融通の利く観音であったようで、二月堂の宗教界を挙げての懺悔祭祀の悔過の本尊も絶対秘仏の十一面観音であるように、生前に犯した罪穢れをすべて許してもらえる存在であったようだ。 鑑真渡来以前の南都仏教界では、破戒僧や一般民衆、そして異類である畜生や鬼神、邪鬼をも包み込む告解を受け止める仏として無限抱擁型の観音であったことからひろく信仰されたようである。 この観音が神仏習合理論の仲立ち的役割を果たすことになって仏教は我が国の国教として君臨することになる。 ふたたびドライブウェイにもどり、柳生方面へやや下り、方向を転じて山中へ分け入ったところには道標のように立つ芳山の二尊石仏がある。 奈良時代後期の作で芳山への取っ付きにある。芳山の山頂付近には小さな磐座と思しきものも散見され、とても感慨深いものがあった。 良弁たちは、ここから笠置へ抜け琵琶湖を経て若狭や栗東方面へ駆け抜けたのであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月15日 13時18分45秒
コメント(0) | コメントを書く
[きのこ目の日本史] カテゴリの最新記事
|