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2021年01月17日
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カテゴリ:きのこ目の日本史
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 ​我が国最初のバブル期の天平文化の陰の演出家・良弁と対話を重ねる中で、私の中で気がかりになってきた場所がある。月ヶ瀬からさらに伊賀上野へ下ったところにある島ケ原の正月堂だ。
 月ヶ瀬で開かれた大麻の糸作りワークショップに参加した私は、夕暮れ近くなって美しい女人2人とともにこの島ケ原の正月堂を訪れた。そこでこの秘仏の33年に1度の御開帳が2年後にあると聞き、翌年、翌々年と訪れ、晴れてこの日像高205cmの厳しい風貌の秘仏にまみえることができた。
冬の雨が篠突く2015年11月8日のことだった。(写真は絵葉書より) 
 御堂にはこの本尊のほか、3体の十一面観音がある。なによりも大切なのは、この御堂が当地の神社建立以前に創始されていることである。神仏習合以後に建てられた神宮寺とはまったく異なり、氏神の祭祀以前からこの観音寺には十一面観音が祀られていたのである。
 東大寺の毘盧遮那仏造立で多くの民が水銀中毒や建造にかかわる事故で亡くなったことに胸を痛めていた実忠に、良弁が笠置山の千手窟とこの正月堂を示唆し、ここで行われていた修正会の祭祀を、修二会(二月堂のお水取り)のモデルとして採り入れさせたものと思われる。
 大仏開眼の天平勝宝4(752)年に始められ千二百五十年以上もの間、一度の断絶もなく続けられてきたお水取りの行事(=十一面悔過法)には、実忠のそんな思いを察した良弁の親心がこめられていたように思える。




 島ケ原には正月堂の近くに鵜の宮神社も現存する。お水取りにかかせない若狭井の鵜の説話を思い出さない訳にはいかない。​

 さて、秘仏御開帳の日の記念写真の左端のY・Kちゃんは今春、隣のお母さんを見下ろすほどの背丈になっており、右端のN・N、N・Aの2人はめでたく結婚、男子を授かり、右から3人目のM・Yくんは5回忌を偲ぶ会がこの正月31日の命日に立花の○○画廊で開かれるという。たった5年余りの間のこの凄まじい変化に「歳月人を待たず」を思い知らされたことである。
 この地をはじめて訪れた2013年10月13日、秘仏御開帳の35年後、二人の美女とここでの再会を誓い合ったが、おそらくそれが無理であろうことを思い知らされたことである。

 島ケ原の正月堂は、神亀2(725)年、天武天皇の多紀皇女が伊勢の斎王を勤めあげたのち、此の地に父母の菩提を弔って観音寺を立てたことに始まるという。
 十一面観音信仰は、地蔵信仰に先立ち我が国にもたらされたものであり、正観音像よりもこの異形観音像のほうが広く信仰された。
 良弁の開基寺院の本尊はすべて十一面観音であるし、その大本に当たる白山の泰澄の流れを汲む優婆塞たちとは秦氏を通して昵懇であったと思われるので、彼が貴顕の救済と国家鎮護のための毘盧遮那佛とは別に、庶民の魂救済の仏としてこの観音を選択したのは、おそらく喜怒哀楽の
十一の人面を戴いた観音に庶民の心に直接届く分かりやすさを認めたからであろう。
 26年目の阪神大震災の日の1月17日、次々と届く花束やアイリッシュ・ウィスキーに、私自身が良弁とつき合ってきた日々のはじまりの頃からこの十一面観音との出会いが組み込まれていたようにも思えてくる。
 長い間、中途で投げ出し埃をかぶっていた
井上靖の十一面観音巡礼の長編小説『星と祭』を井上靖ファンの友人に思い起こしてもらい、この歳晩の日々に読破、いよいよ身辺煮詰まってきた感すら覚える。
 のうのうと独り生きながらえてきた私の一期一会のきのこの旅も、そんな私の心の動きをきのこたちが導いてくれた私の必然的な月の道であり、その旅そのものが私自身の十一面悔過法であったように思えてくる昨今である。
 そのように思うと
卒塔婆小町に近づいた美女たちと老斑にまみれたイノブタじじいとの35年後の約束もすでに8年を経過しているので、次の御開帳までの27年の日々も可能なようにも思えてくる。





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最終更新日  2021年01月17日 14時37分27秒
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