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カテゴリ:きのこ目の日本史
信楽高原鉄道のしがらきぐう駅ほどに近いところに甲賀寺址、近年紫香楽宮址であることが発掘調査でわかった遺跡が残されています。 馬酔木の花房が見事な季節。紫香楽宮もつぶさに見てきました。 巨大建造物の礎石と思しきものが整備されて残されています。 我が国最初のバブル期は、当然パンデミックを伴います。これは人類史の宿命で、律令国家の完成に沸き平城京遷都による都市拡張のための乱開発と急激な人口密集は、天然痘の大流行をもたらしました。律令国家建設の立役者であった不比等亡き後、藤原一族が四家に別れそれぞれが政治の中枢部に入り込み、藤原の世が花開くと思われたその直前にパンデミックにより、四家とも病死しあっけなく瓦解してしまいます。 それに伴い玄昉、真備の世になり変わってしまい、その子供筋にあたる藤原広嗣はことごとく異議をとなえていたことから大宰府へ左遷されます。 この竹を割ったような直情型で豪快な人物を聖武天皇はこよなく愛していたらしくそのための処置だったようですが、それが裏目に出ました。 広嗣は北九州の隼人や筑紫の反政府勢力と迎合する形で広嗣の乱をおこしてしまいます。その乱鎮圧に都より軍勢を派遣し、まだその動向の定まらぬ時期に聖武天皇は平城京から東国への行幸を強行するのです。 繊細な心の持ち主だったとされる帝が都を捨てて逃げ出したという説もありますが、聖武帝には天然痘が猖獗をきわめた時から、都を分散させる計画を抱いており、これから数年にわたって、まず恭仁京に遷都し、次いで仏教の法の都を紫香楽京と定め、難波京を商都とする意志がありそれぞれ建設をはじめます。パンデミックに襲われた余韻冷めやらぬ平城京を廃都にするつもりであったのでしょう。 この藤原の首脳陣の壊滅の隙間に登場してきて藤原勢が巻き返しを図りだすまてのしばしの間に頭角を現し聖武帝の理想の都建設のために尽力した人物こそが良弁と行基だったのです。 とりわけ良弁はその火付け役としても大活躍した世紀のエンターテイナーであったように私は思います。 この紫香楽、恭仁、難波はすべて泉川(現・木津川)流域にあります。この湖東の木津川流域から野洲川の流域にかけて物心ついた頃より不惑の歳までひそかに厳とネットワークづくりに励んできた人物こそが良弁だったのです。この暴れ川の木津川には良弁が難所を掘削した伝承が残されています。また巨木を切り倒し筏にして流す杣人には飛騨の匠たちが起用されたと言われています。 都づくりには膨大な材木が必要です。それらの供給をスムースに手配し、資金調達に立ち回った人物が良弁で、それらの資材を用いて土木建設に集中した人物が行基だったのです。今でいうところのゼネコンの親分たちですね。「力の行基、知の良弁」とはそのことに指していると思われます。 この都づくり、大伽藍づくりの乱開発のしっぺ返しがパンデミックであったことは21世紀の現在まで変わりません。奈良時代は現在のコロナ禍まで続くパンデミックの幕開けであったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年02月01日 21時38分13秒
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