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2021年02月07日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

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 伊賀上野から島ケ原、月ヶ瀬口、笠置、恭仁京、海住山寺は、すべてこの古代幹線道路であった木津川に沿ってある。かっては名にし負う暴れ川で泉川と呼ばれていた。現在は上流にダムが出来、水量が制限されているが、平城京建設の際には木津(木の港)の名の通り、紫香楽や流域の杣から巨木の材を流して加茂のあたりで水揚げされ陸路平城京まで運ばれた。

 JR加茂駅で降りて、恭仁京と隣接する国分寺址から海住山寺を望みつつ、田の畔を長々と通り抜け、山辺を目指す。2013年2月13日、オオイヌノフグリが一面に咲き乱れる小春の日であった。

 タクシーがようやく一台通れるほどの山道を登ると寺院に至る。アプローチの険しさが今もって参詣客を拒んでいるため静かな山寺の景観をとどめている。

 海住山寺の山門から加茂方面を振り返る。

古色蒼然とした本堂と国宝の五重塔(写真下)

 聖武天皇が猖獗をきわめたわが国初期のパンデミックの天然痘で疲弊した平城京を廃都とし三都構想を実現する手始めに、行基を起用して橘諸兄の別業(別荘地)のあった恭仁京に天平十三年(741)遷都をしたが、それに先立つこと6年前の天平七年(735)に良弁に勅を下して恭仁京建設の平安を願い十一面観音像を安置して観音堂を建てさせたことがこの寺の創建だという。
それから勘案すると三都構想は長屋王の変の頃から聖武帝の心の中に芽生えていたものと思われる。その漠然とした思いを決定的にしたものが藤原四家の長の病死と藤原広嗣の乱であった。 

​​​​ ここには良弁に命じて安置したと伝えられる新羅様式の十一面観音(重文)が納められている。
    
                 ウエブ図像より転載
 良弁はその聖武帝の思惑を十全に実現して天平文化の中心的役割を果たした人物であることがこのことからも推察されよう。
これは海住山寺で見つけた佛足石(この日のおまけ)


 海住山寺が見下ろす泉川べりには恭仁京址(実際には、途中で紫香楽宮建設に移ったため中途で投げ出されたが、その大極殿址が残されている)。
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 その恭仁京大極殿址に隣接して国分寺跡が残っている。






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最終更新日  2021年02月07日 09時26分02秒
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