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2021年02月09日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

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 金鷲行者・良弁たちの活動拠点となった金勝山は、紫香楽宮の北東部の龍王山605m、鶏冠山491mを含む金勝アルプスとよばれる花崗岩山脈の龍王山中にある。JR草津駅からタクシーで20分ほどで金勝山・金勝寺に至る。甲賀寺址(紫香楽宮)の北東にあり、飯道山からは山稜伝いに指呼の間にある。
 紫香楽宮の鎮護として天平五年(733)、聖武天皇の勅願で良弁が開基したとされる名刹である所以がこれでよくお分かりになるだろう。もちろんこれらは後付けの物語ではあっても、谷川健一によれば、此の地から野洲川流域の石部のあたりには銅鉱脈があったというので、東大寺廬舎那仏の造立にからめてのストーリーが読み取れる。

 境内で認めたウラべ二ガサ(通称シカタケ)だけがお守りしている無住寺と思いきや、若い雲水が独りここに奉祀していた。

 良弁ののち、最澄らによって整備され天台宗寺院として金勝山中の広大に寺域を誇る寺院であった。

 ​飯道山との関連で必要に迫られ、2012年6月6日、金星の太陽食のみられたまさにその日、此の地を訪れた。ここを起点に金勝アルプスの行者道を狛坂廃寺址を経て上桐生バス停までを歩き、道中、良弁たちの山林修行者たちの痕跡をたずねることがその目的であった。
 そもそもこの山塊は白鳳年間に役小角が修行をしたという伝承も残される磐座の累々とかさなる聖地で、奈良時代から江戸時代まで、各時代の修験、山伏たちが足しげく訪れたとみえ、道中さまざまな石仏が​散見される。写真は、
道中の道しるべ的存在の茶沸観音。ここで一服、茶でも沸かしたことからの名称であろうか。

 巨岩が二つ積まれたような、通称重ね岩。
 ここからは、奈良時代この山塊の重要性が納得される景観がほしいままにできる。


 重ね岩には今でいうところの落書きのような図像が数か所、線刻で刻まれている。

 金勝山の北部にはけわしい岩尾根の向うに琵琶湖の湖水から湖南の風景が広がっている。

 今は整備されて安定したハイキングコースが開かれていて実に気持ちのよい山旅ができる。

 そして尾根筋がしばらく下りになるとその底に狛寺廃寺跡に巡らされた石垣群が現れた。
 醍醐天皇の御世、蒲生郡の狛長者の娘が檀林皇后に金銅の観音像を献上、天皇がそれを興福寺の伝燈大法師・願安に下賜した。法師はそれを金勝寺に安置したが、そこが女人禁制の聖域であつたため、この地に狛坂寺を建立し、弘仁年中(810~823)にこちらに移したとされる伝承が残っている。いわば女人金勝山とでも言うべき地なのだ。  
 明治の廃寺廃仏運動の結果廃寺となってしまったが、寺域の広大さといい、こちらの寺院もすごい伽藍であったことが偲ばれる。


 ​その女人寺の狛坂廃寺の域外に、寺と向かい合うように6m×3.5mの花崗岩自然石の一枚岩に刻まれた狛坂摩崖仏と呼ばれる三尊像が残されている。現在は雨ざらしのまま放置されているが、かっては覆い屋根の下に安置されていたのであろう。風化を免れて見事な造形美を今も湛えている。


 座高3m、顔の幅70cmの阿弥陀坐像を中央に、その両脇に観音、勢至菩薩を配し​その周囲に12体の仏像が半肉彫りに刻まれている。主尊が弥勒でないことから、​​この像は当初平安時代のものとされたが、統一新羅時代の様式で刻まれているため、奈良時代の良弁の時代に渡来人の工人によって刻まれたものと言われるようになった石仏である。
 この見事な石像に出会い、良弁の痕跡を確かめるためにこの山深い山中にまで足を伸ばしたのだった。

 この山塊はさすがに音なう人とてなく、道中、人ひとりとして出会うことはなかった。狛坂廃寺を守るものも人ではなく、私の前を悠々とよぎった若いシマヘビ1匹のみであったのでなお印象深い思い出となった。






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最終更新日  2021年02月09日 15時17分52秒
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