夢みるきのこ
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三輪山麓の若宮神社にはオオタタネコを祭神とする若宮神社がある。三輪山登拝のあと、この神社と安倍文殊院を訪ねた。 ヤマトに入植して力をつけた崇神天皇が太陽神である三輪山の神をアマテラスとオオモノヌシに分けて磯城宮から追い出したのはよかったが、彼の霊力はまだ、到底そのヤマト大国魂神に優るものではなかったゆえに、わか国の文献に残る最初の頃のパンデミックである疫病はやり民の半数が死に絶え、逃亡した際になすすべがなく祈ったところ、複数の臣下の枕元に大国魂神が顕ち、堺の陶邑の遠い孫を探し出して祀れば収まるという言葉を聞き上奏した。それを受けて招かれてヤマト入りしたのが三輪神社の神官たちの始祖となった大神族である。 かれらは神武天皇が熊野から尾張氏らの祖、高倉下(たかくらじ)に支えられてヤマト入りしたという天孫に協力した伝承をもつ奥三輪に当たる宇陀あたりの三輪族である。ムックきのこクラブで訪ねてきた奥三輪の伊那佐山や額井岳、鳥見山などは彼らのかんなび山である。その三輪山麓で王権を支えてきた三輪族に合流し、主導権を握った大神(おおみわ、おおがとも読む)氏が大神(おおみや)神社の祖となった大神(おおが)氏である。私はこの二つの流れをおおみわ、おおがと便宜上読み分けている。
さて、三輪の大鳥居から更に南方面に30分ほど歩いたところには安倍文殊院がある。 ここは安倍氏のヤマトにおける本拠地となったところで、伊賀上野一宮の敢国神社を祀る氏族も同族である。彼らはもともとは天皇家のまかないを任されていた饗(あえ)を取り仕切る氏族で、伊勢や若狭で勢力を伸ばしていく。その東国から畿内のヤマト圏へ入る玄関口を押さえていた氏族である。 戦国の信長時代まで大伽藍を誇る寺院であったが、明智光秀の盟友の三好氏により焼き払われ再建されたのが現在残っているものだ。浮御堂がとりわけ美しいこの寺域には東西2窟の古墳が残されており、近くの住宅地には草山古墳が残されているのが私には文殊院の真の魅力と映るが、誰もそうは思わないらしいので力説はしない。 今では国宝クラスの仏像や曼荼羅図を多く所蔵し、そちらのほうで有名だ。 私は高校時代に写真部の友人と奈良を訪れ見仏から歴史に興味を覚え、仏像に興味をいだいたのだが、その後きのこと出会い、長年、きのことそっくりな木喰仏や路傍の石仏に親しんできて、美術史に残る仏像にはさほど感動しなくなってしまった。しかし、寺院を支える重要な財源となっている著名な仏像もまた別の歴史を刻んでいるので無視することはしないが、魂の救済とはまったく違った方向へと流れていった仏教寺院のあり方、すぐれた仏像のあしらわれ方には宗教文化の立場から大いに疑問をもっているので、余り深入りしないことにしている。 寺院へ行くとまずタブーとされる梵鐘を撞き、本堂へ入ると木魚を叩くので方々でひんしゅくを買っているが、鐘ぐらい好きに撞かせてくれよというのが私の正直な気持ちだ。 これが国宝のほまれ高い獅子に乗った文殊さまだ。撮影もなでることも禁止であるぞ。フラッシュをたくのはダメでも、なぜ、タブーづくめにするのか訳がわからない。だれのための仏像なのか。聞くとおそらく寺の維持のためですという答えがかえってくるだろうことはわかっているので聞かない。 ただし、この安倍文殊院では、境内に古墳が整備されて中に入ることも可能な形で残されていることである。これは、この地で古代史の5~6世紀、つかの間花を咲かせ、以後の我が国の歴史にひっそりと、しかし存在感を示し続けた安倍氏の族長たちの墓なのである。有名どころでは歌人の安倍仲麻呂、陰陽師の安倍清明、阿部比羅夫、しかも、絶えず中央から排斥され、悲惨な歴史を刻んでいく蝦夷たちが安倍、阿部、阿拝など好んで自分の名にしたのも不思議ではある。あべかわ餅でも食べながら考えてみてはいかが?。
ただし、この覆土をとられ石室が露わになった古墳は、関裕二氏によれば、のちの王権から排除された氏族の古墳であるという。 飛鳥にある蘇我氏の石舞台、太秦にある秦氏の蛇塚古墳しかりというわけだ。祟り神の考え方からはそうかもしれないが、私のきのこ目の日本史からは、こうした考えにもさほど靡かないものがあるので解釈を控えることにする。 その文殊院の裏手にある艸山古墳。 内部の立派な石棺も見ることが出来る。古墳の盗掘者たちはこんな石棺の蓋をどうして開けたのだろう。そんな疑問を同行の有志と語りながら桜井駅へと向かった。
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