ネコの日のイヴに当たる2月21日(日)、ラボMで午後2時~5時。1970年代のロシアン・ポップスのテーマでなつきじろうの音楽サロンが開かれました。
コロナ禍でのサロン活動再開は、私たち底辺に生きる人間にとっては続けることに意義があると考え、毎月の第三日曜日開くことにしています。
すでに3月21日は「ブルースとロックンロールにルーツをもたないロックミュージック」として森田一哉さん、4月18日は「心彩るシタールの響き」としてインド音楽の魅力を伝え続けてきた田中峰彦さんが決まっています。
日本に住む私たちにとって、70年代とは変革の時代から高度成長が軌道に乗り始め、80年代のバブル期を準備しはじめた時代でしたが、ロシアにとっては70年代は、停滞の時代と言われます。ソビエト市民にとっては社会主義政権下で育まれてきた新しい文化形成の時代で私からみれば、とても重要な時期であったと記憶しています。
ソビエトのチェコ介入事件の60年末の春から夏、私はハバロフスク沿岸貿易見本市に参加して、はじめて現地入りしました。その時、ホテルのダンスホールや町中やラジオから流れる音楽に接し、「カチューシャ」や「ともしび」しかしらなかった私は、その同時代性に目からウロコ、いや耳垢が落っこちるほど驚きました。それほど鉄のカーテンの向うの国のポップスは新鮮でした。
以来、訪ソの度に通関でレコード屋さんかと疑われるほどレコードやカセット、書籍を買いあさって帰ったものでした。社会主義の啓もう教育に力をいれていたソビエトでは、書籍やレコードはとても安価でしたので僕のような貧乏学生でも買い漁ることができたのです。
スターリン批判、そして大粛清の仕掛け人・べリア追放ではじまった雪解けの時代の53年から、5ケ年計画の失敗、キューバ危機でのケネディとの対決の不手際で陰りを見せ、64年に失脚したブルガ―ニン、フルシチョフ政権の10年余りは、それでもソビエトが戦時共産主義体制から脱却し、ガガーリンによる宇宙有人飛行の成功などで、社会主義国ソビエトが国際社会に躍り出たもっとも華々しい時代でした。したがって、大戦終了後、ロシアン・ポップス シーンは、都市建設や共産主義青年団ピオネール(英語ではパイオニアの意味)の賛歌で満たされ、軍歌調のものか民謡をリメイクしたものが主流でした。
それが60年代後半から停滞の時代に入り、個人主義的な傾向が色濃くにじみ出た曲が作られ出して間もなくの時代の音楽に期せずして私は接したことになります。
そして、日本でも、NHKのロシア語講座で採り上げた音楽が、いち早く注目されることとなり、19741年、日本ビクターからリリースされました。(冒頭のジャケット)
これがとても見事にロシアンポップスの来し方、行く末を暗示するものでしたので、この日のサロンでもテキストとして披露した次第です。
なかでもポーランド系フランス人で、レニングラード大学哲学科に留学していた大学生がアンサンブル・ドルージバでたまたま歌ったことからロシアで一世を風靡した歌手(歌手)の芸名、エディータ・ピエーハ(シャンソン歌手のエディト・ピアフをもじったもの)が、ロシアで超有名な現代詩人、A.ヴォズネセンスキー作詞の「ろうそくのあかりのワルツ」を歌ったものを中心に語りました。冒頭のレコード・ジャケットの写真は、彼女の当時の姿でしょう。
また詩人のヴォズネセンスキーは、加藤登紀子が歌って日本でも知る人ぞ知るヒット曲となった「百万本のバラ」の作詞者でもあるのでご存知の方も多いかと。
サロンの後、お茶を飲みながら70年代後半から激化した反体制シンガーソングライターのヴィソツキー、私が最も愛するおじさん歌手のアレクサンドル・ローゼンバウム、ソビエト映画音楽の挿入曲やオクジャワなどを流しながら80年代からペレストロイカまでの音楽シーンもまた機会があればお話ししましょうと言ってその日の集いを終わることにしました。