ひな祭りの日にJAへ行くと桃に混じって梅の花が並ぶ中にチラホラ桃が混じって売られていた。桃の花と間違えて買って帰る若い親たちがきっといるに違いないと思った。そんな若い人が買い帰って、梅の節句?、何か変だなと思いながら花瓶に入れる様子を想像してひとり笑ってしまった。
この春は、羽束山の向うに桃源郷があることを発見。そこにはなぜか桃ではなく、梅の花が満開であったのを思い出した。
この時期、桃、梅、木瓜の花木が方々で見とめられるが、花屋の店先ではなく風景の中で漫然とみているとその区別はつけがたいものだ。
さて、石原吉郎の本を読み返していると、かって読み終えて衝撃を受けて再読し、本文の記事から手書きで彼のシベリア抑留の年表を作った私の若書きのメモが出てきた。
ソルジェニーツィンの「イワン・デ二ソヴィッチの一日」。フランケルの「夜と霧」そして石原吉郎の「望郷と海」、いずれも社会的動物として行動をする人間が人生の節目ごとに立ち戻らねばならない人類史の負の世界遺産である。20世紀の負の世界遺産がすべて忘却の彼方へと流れ去ってしまいそうな現在、せめて、戦前戦中の記憶を祖父母や両親に見てきたアプレ・ゲール(フランス語の戦後の意)と言われて育った団塊世代の生き残りの私たちが次世代に伝えるべきものは山ほどある。
突然、人生に投げ込まれ受け身のままに馬齢を重ねてきた私がたどり着いた小冊子「月のしずく」とは、夜露の一滴、糸状体菌糸本体の数ミクロンの1細胞にひとしい1市井人の立場で、ささやかなきのこを作り伝えるために生まれた。
「月のしずく」の試みは、きのこを虚像としてとらえることにつきる。
きのこは、身体と心のリアルとヴァーチャルの交錯が常態である人間と極めて酷似した生き物なのだ。
目に見える巨大微生物の子実体である🍄は、ミクロな微生物・菌類の1細胞からみれば虚像であること。この認識の逆転こそが新しい生物学の基礎と私は考えてきた。
そう受け止めてはじめて地球生物群の中でもきわめて存在論的に近似するきのこが、ヴァーチャルとリアルが交錯する21世紀の中で私たちが生きる際の道しるべになると私は考えている。
動物、植物、真菌類、細菌、そしてウイルス。ようやくこの微細生物の存在が明らかになってきた今、きのこはとても重要な意味を帯び始めている。
30年前に日本キノコ協会を立ち上げたとき「TTK=きのこを通して」を基本精神としたが、このThrough The Kinokoが「月のしずく」に至ってようやく実現しつつあるのはうれしい限りだ。