昨年暮れと今年の旧正月、三輪山界隈の山の辺の道をたずねたが、久延彦神社のことはその折に触れた。古事記に出てくる大国主命と国づくりをするためにやってきたまれびとの少名毘古那神の名を知っていた唯一の人物がクエヒコさんで、今は山田之曾富謄(やまだのそほど)という者だと書かれてある。この神は歩くことは出来ないが天下の事は何でも知ってるよとある。そこから三輪山の麓にあるくえひこ社は、学問の神様として受験生たちの神様になったようだ。足萎えの身で、のちにその一本足の立ち姿からイッポンタタラやダイダラボッチに形象化された。
ここを通る度に、私は竹内健の『邪神記』の「星神香香背男考」を思い出す。『ランボーの沈黙』の著者であり、演劇家であることくらいしか私には伝わってこない謎の作家だ。彼は、わが国上代語について抜群の言語感覚の持ち主で、「そほど」の「そほ」は万葉時代に真砂、朱に相当し、赤を意味したという。♪まがね吹く丹生の真曾保♪のマソホのソホ、すなわち辰砂=硫化水銀と言い当てた。
蕪村の句にもますほのススキがあり、赤い花ススキを意味している。この辰砂(=硫化水銀)は、古代の神事に欠かせない紅で、スサノオは朱沙王であるという考証もあるくらい、物部の出雲と深いかかわりをもつ。この辰砂を塗った朱塗りの船のことを赭船(ソホフネ)と訓ませることも併せて引いている。京の町家のベンガラ塗りもその名残りであろう。防腐、魔除けの朱だ。そほどの「ど」は、あきんどとか狩人とかの「ど」で人のこと。
竹内氏は、ここから山田の案山子へ話をもっていくのが凄い。
「カカ」とは赤色の形容の古語で赫。「シ」は古墳時代には霊魂を意味する「チ」、律令時代には漢字文化が重なって美称とされ「主=ぬし」とか「大人=うし」が当てられたという。
後には「シ」が音韻の転訛から「チ」と「ミ」に区別されいずれも霊魂を現すが「チ」は不可視な内在霊を「ミ」は可視の顕在霊を表すことになったという。魑魅魍魎のチやミにも通じよう。
私は、これを聞いて<カカ>は梵語でも赫を意味し、地蔵菩薩ご真言<オーム・カカカ・ビサンマエイ・スヴァ―ハ>のカカ、それから蛇のヤマカカシのカカにも通じると想像した。そして真朱(ますほ)は、倭語では「丹」が当てられ、日本列島の硫化水銀の産地の地名に丹生、丹庭、壬生、入野とその名をとどめているという。
ゆえに「そほど」は「かかし」と同義で赫を強調した赤人なのだとした。竹内建さんはまことにもってすごい人物だ。
このことで私がひらめいたのは、天平時代に柿本人麻呂がフェイドアウトした後、入れ替わるかのように登場した聖武朝の宮廷歌人の山部赤人だ。
なるほど、彼のペンネームは、山田の案山子のもじりだったのかと天平びとのユーモアに思わず笑ってしまった。
大国主命が少名毘古那の名を「一体なにものだ」と訪ねたとき、物知りのくえひこを紹介したのは、ヒキガエル(たにくぐ)くんだが、この神社にはその故事を偲ばせるものは何もなく、お守りもフクロウだけ。
代わりにわれわれを出迎えてくれたのは殻の口に紅を引くのでその名があるクチベニマイマイだった。私はそのとき、三輪山麓のまさに山部赤人と受け止め、ひそかに感謝したことである。