古代史の世界で王家と覇権を競うまでになった葛城氏を雄略天皇が円大臣を殲滅したことで、襲津彦に連なる葛城の勢力は絶えたが、そののちも依然大きな勢力を温存していたことは間違いない。そののち、継体天皇の御世に頭角を現した蘇我氏は、その葛城氏の正当な後継者として権勢をほこるようになる。私は、この10年余り古代の葛城氏、物部氏、蘇我氏の息がかりの神社仏閣とその土地柄を訪ね歩き、教科書の定説となった蘇我氏の真価を探ってきた。甘樫丘の近くに豊浦寺があるが、ここの住職(写真下)は、今に続く蘇我氏の末裔でいろいろお話を聞くことができた。
皇国思想の整備の中で、蘇我氏は国賊級の人物に仕立て上げられたが、私のきのこ目の日本史は、蘇我氏の再評価とその顛末を探る事でもある。聖徳太子、秦河勝をはじめ、蘇我氏に連なる人たちは当時もっとも開明な政治方針を貫き、我が国の国際化に貢献したが、その急進性ゆえにふたたび乙巳の変(一般には大化の改新)で殲滅される運命にあったことは実に痛々しい。