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豊浦寺の講堂礎石 豊浦寺は現在向原寺と呼ばれています。この向原寺の下層から豊浦寺の講堂の礎石と遺構が見つかっています。蘇我氏の係累は、明治以降昭和の敗戦まで随分肩身の狭い思いをされてきたことでしょうが、蘇我氏の功績は列島の国際化に必須な宗教文化として仏教の国教化に努めたこと。律令制以前の列島の秩序を宗教倫理と経済の面で整え、物部・中臣の百済偏重外交に対し、多極外交を目指したことなどがあげられます。 豊浦寺の遺構。 廃仏の難波の堀江とは 仏教導入を群臣に問うた欽明天皇に対し、中臣・物部の猛反対を押し切り向原(むくはら)の自邸を寺院に、小墾田(おはりだ)の自邸に仏像を安置し、我が国最初の尼僧を育成するなど、尽力を惜しまなかった蘇我氏ですが、まもなく疫病が広がり、それを蕃神を敬ったための神々の怒りとして寺を焼き払い、物部尾輿が仏像を難波の堀江に捨てたと書紀にあります。「その堀江とは向原寺の境内脇にあるこの池です」と住職は遠慮がちに語っていた。 向原寺の隣にはひっそりと甘樫坐神社が佇んでいた。いますとあればだれそれという祭神の名がつづくところであるが、その祭神の名が抜けているところとても奇異な感じの社である。祭神は推古天皇というのは江戸期になってのことだが、調べてみれば、この神社は古代、盟神探湯(くがたち)の神事が行われた重要な場所である。あの熱湯に手を入れて事の真偽を占う神事であった。 このむくはらの地は甘樫の丘の北端やや東にあり、そのやや北に小墾田、やや南には飛鳥寺が近接し、蘇我氏の気配が濃厚な土地柄である。そして蘇我氏の息のかかった女帝推古天皇の都のはじまりは小墾田宮であったことも重要だ。 奈良盆地は、東の三輪族、西の葛城族、北の春日族がそれぞれ占め、やがて盆地を転々とした天皇家が南の飛鳥の地に落ち着き、次第に力をつけていく。その手足となったのが葛城の後継者たる蘇我氏だった。やがて外交問題のこじれから当初押され気味だった古代最大の雄族物部を遂に打倒し、その河内に本拠をおく守屋の所領の大半を手に入れた蘇我氏は、国王になるのも可能なほど強大な勢力となって天皇家の筆頭家臣となった。 が、それも馬子の時代まで。蝦夷、入鹿は、崇峻天皇を白昼殺害し大逆罪を犯したことで風向きが変わってくる。この事件以来、秦氏を敵に回してしまったことは致命的であった。 この蘇我氏転落の最大の契機について史家はさらりと流すのみである。天皇殺しは、彼ら以前には眉輪王が父の仇と知らされ安康天皇を殺害した前例があるのみであった。それがのちの我が国に「天皇は神聖にして犯すべからず」の典拠となっていく。 それはさておき、古代チーズの蘇を売っていた飛鳥寺にも触れておこう。
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