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2021年03月26日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

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 わが国最古の寺院は豊浦寺(現 向原寺)だが、本格的伽藍としては、ここ飛鳥寺が日本最古の寺院といわれる。蘇我馬子が建立。創建時は、元興寺、法興寺と呼ばれていた。

 安居院の裏手、甘樫丘方向に再現された元興寺遺構址。


 現存する中金堂(写真上)が安居院として公開されている。

​ 安居院には通称飛鳥大仏の修復の跡が著しい金銅・釈迦如来像が祀られている。蘇我氏の氏寺である。この金銅仏造立の知らせを聞いた高麗王は、黄金を馬子に贈ったといわれる。蘇我氏が多面外交を重んじた証しである。

 蘇我氏本宗家壊滅後もこの寺は大切に扱われ、平城京の時代になっても近鉄奈良駅近くの奈良町に移されて元興寺として今も健在である。書紀によれば、乙巳の変で入鹿が殺害されると東漢氏が警護する甘樫丘に籠もる蘇我蝦夷に対し、中大兄皇子と中臣鎌子の勢力がここに籠もって臨戦態勢を敷いたところとされる。


 安居院の境内の端には、甘樫丘を日夜見つめる位置に伝・入鹿首塚の五輪塔が置かれている。前方の丘が蝦夷、入鹿時代の蘇我氏の居宅。甘樫丘に警護の固い邸宅を構えた頃から蘇我氏は、乙巳の変の起こるのを自ら予感していたようで、朝鮮半島の動向を見据えた外交政策の違いは露わとなって独自路線を強行しはじめたようである。当時の甘樫丘は要塞めいて、指呼の間にある飛鳥の皇極朝にとって脅威の存在となりはじめていたことと思われる。
 わが国の歴史は往古より現在にいたるまで、新羅系と百済系の覇権争いとみるとよく分かるといわれるが、その端緒を切った対決が蘇我と中大兄(のちの天智天皇)だったと思われる。もちろん、それは東漢氏を配下にした新葛城族と中臣(のちの藤原)との代理戦争であった。
 仏教がもはや消しがたい宗教文化として人心をとらえてしまったと感じた神祇勢力の中臣の中から、法制度による支配こそ新しい時代を画するとみた藤原が台頭するのは、すでに蘇我氏本宗家殲滅のこの時点で決定していたように思われる。秦氏は、なぜか氏族として扱われてきたが、彼らは血族集団としての絆はうすく、今でいうところの経済連のようなもので政治とは無縁の職能集団であったから、これらの動きを苦々しく思い、両勢力から等しく距離を置いたと思われる。
 しかし、歴史の表舞台に現れた聖徳太子、秦河勝の意志を継承する秦の勢力は、この頃からアメノヒボコやツヌガアラヒトにつながる北つ海勢力の後裔を自覚するようになり、地下にもぐって平城から平安遷都までのはるかなシナリオづくりに着手していったと思われる。

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 十一面千手観音像と法界の文字がしたためられた道標(飛鳥寺址)​
 私が道のべのきのこや石仏の語りに耳傾けるのは、そんな歴史の流れを地表下で支えてきた勢力の正しい評価なのだ。

 ​地蔵菩薩石柱(飛鳥寺址)​
 その膨大な下層民の沈黙の重さこそが、私を大地の語り部・きのこや石仏へと向かわせる。​​






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最終更新日  2021年03月26日 10時24分34秒
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