夢みるきのこ
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向原寺(旧豊浦寺)は、その遺構から、ここが推古天皇の宮処址であったことも分かってきた。蘇我氏の邸宅はまず豊浦寺となり、ついで推古天皇の即位当初から宮廷としても用いられたということだ。 その向原寺境内には「伎楽伝来の地」の碑がある。 谷川健一によると、この寺の傍らに桜井という井戸があり、桜井の地名はこれに由来するという。桜井のまたの名は、榎葉井(えのはい)、また朴井(えのい)と呼ばれた。 崇峻紀に「学問尼善信等百済より還りて桜井寺に侍り」とある日本最初の仏教尼は、海石榴市で物部尾輿によりみせしめのため公開で鞭打ち刑にされた蘇我氏の息のかかった尼僧であるが、彼女もこの蘇我氏の邸宅からのちに向原寺となった桜井寺に居住したようだ。 物部守屋の子・物部連雄君は、榎井連小君(えのいのむらじおぎみ)と称し、壬申の乱で功績のあった大海人皇子の舎人で、この朴井の地は本来物部守屋亡き後の物部の後裔氏族本貫の地であったことがわかる。 更にこの地に百済から伎楽がもたらされて味摩之(みまし・あじまし)がここに住まわされ、推古紀20年に百済人味摩之が帰化し伎楽を伝えたとある記述に重なっていく。それが『明宿集』では秦河勝の子に三子あって武芸を伝えた長谷川党、猿楽を伝えた金春、そして四天王寺の伶人(楽人)を伝えたとある。「河勝の子にはじまり、秦氏安を中興の祖とし、円満井金春へと続く」金春禅竹はこのように語っているのだ。この碑はそれらの経緯をさりげなく語っている。 朴井(えのい)から円満井(えまい)とはごく自然である。さらに向原寺はかって円満院と呼ばれたこともあったそうだ。
今に続く四天王寺の伶人たち 四天王寺で毎年の4月22日開かれる聖霊会の光景 私は、きのこ目の日本史・初学の頃、大和の方々を歩くと蘇我、物部、中臣の旧地には必ずといってよいほど、この3者が仲良く並んでいることに奇異の感を否めなかった。 ここ四天王寺でも聖徳太子廟の裏側には宿敵であるはずの物部守屋の祠がひっそりと佇んでいる。 何度となく訪れたがそのたびにきれいになっていく守屋の小祠 やがて、これらの奇異さ加減が、我が国の歴史が世界史からは隔絶した「東洋のガラパゴス」である所以と私は考えるに至った。私の日本人論の基本は、この奇異さに根差すものだ。 さて、いよいよ物部、蘇我、そして秦氏が重なってきたところで、その味摩之を地名に残す大和の田原本町にある味間集落を訪ねてみたい。 丹波篠山郊外の秦氏の関与の著しい味間集落については以前に述べたが全国数か所に味間と名の付く集落は残されている。
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