夢みるきのこ
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近鉄橿原線の笠縫駅の東にひろがる味間の地は、麦畑が広がりタテハチョウが舞う田園風景の中にあった。 味間の北の端には笠形の地名が残る。笠形とは春日田の転訛であろう。案に違わず笠形には春日神社があった。 そして味間のど真ん中には須賀神社。須賀は蘇我に通じる呼称である。 裕福な農家が続く味間。 世阿弥が晩年この地で過ごしたという補厳寺(ふげんじ)。元、律宗の寺院で14世紀に禅寺に代わった大和地方最古の禅院である。世阿弥の能楽に禅宗の影響が色濃いのはここに参学して禅に親しんだからだという。 山門の脇には世阿弥参学の地の石碑がある。 そして笠形の更に北の大和川にそう村屋郷には、村屋坐弥冨都比賈神社が残されていた。大国主命が国譲りの際に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)がその娘を与えたという三穂津姫を祭神とし、三輪山のオオモノヌシと重ねられて三輪の別宮とされた複雑な経緯をもつ神社である。この村屋は守屋に通じ、物部の係累がこの社を代々守ってきたと思われる。壬申の乱の際に大海人皇子軍軍勢に神主が神がかりして助言を与えたというから物部そのものである。このあたりは守屋を名乗る家が多く、この神社の脇の屋敷も守屋の表札を高々と掲げていた。(写真下) このように田原本町には藤原、物部、蘇我がいたるところにひしめいているのがお分かりいただけだだろうか。 そしていよいよ味間の味間たる所以の場所へ足を運ぼう。 笠縫駅の西側は秦庄といってまさに秦氏の集落である。向原寺の榎葉井(えのはい)から大和申楽四座のひとつ、円満井(えんまい)に繋がることは前に述べたが、興福寺、春日に宮仕えした金春(代々秦姓を名乗る)が、先祖のために秦楽寺を建て、その門前に金春屋敷を構えたとされる。 この秦楽寺は、円満井座の別称竹田座の竹田にあったとされる。その竹田の地とは、そもそも物部の大和川を挟んで東の蔵堂、西の杜屋郷(村屋神社所在地)を指し、そこにあった楽戸の寺を秦庄に移したとされる。このように伎楽、申楽を巡っても物部、春日、蘇我、秦氏が深くかかわっていた。そしてそれらを貫く赤い糸が楽戸の秦氏であり、秦楽寺は楽戸秦連の氏寺なのである。 のどかな田園のひろがる田原本町で私が体感したのは、ここが歴史の底を流れる暗流のスクランブル交差点だということだ。 それらをつなぐキーワードが味間であり味摩之であり、みましが転じた水沼であり秦氏であることなのだ。 秦楽寺はわが心中の興奮とは裏腹に、珍しい中国風の土蔵門と森閑と鎮もりかえった本堂とさつきの花が盛りの林泉が広がっていた。
小一時間、ここで心のどよめきを楽しんで、完熟のコツブタケに軽く礼を述べてから退散した。
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