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2021年04月04日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

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 乙巳の変の対立は、神祇と仏教の導入問題はごく末梢的な問題で、朝鮮半島の動向での外交問題が最も大きな要因であった。高句麗と百済における政変と新羅の台頭があり、大和の王権は大きく動揺していたことが背景にある。しかし、史書の記述からは、乙巳の変でも、その後の白村江の戦いでも鎌足や大海人皇子の姿は見えぬまま進行している。
 そんな藤原氏の謎をさぐるため、2013年5月私たちムックきのこクラブはシャクナゲの花咲き乱れる多武峰妙楽寺(現・談山神社)を訪れた。談山神社国宝・東大門(写真上)


 おそらく中臣鎌足は乙巳の変の首謀者であったにも拘わらず、黒幕に徹したようである。
  彼は乙巳の変以前から僧・旻(みん)の仏堂で『周易』の購読に参堂していたし、「興福寺縁起」でも、丈六の釈迦像をつくり、そののちに山階寺の造営がはじまったとある。

  また、蘇我本宗家殲滅ののち、蘇我氏の飛鳥寺を領有したようで、飛鳥寺にパトロネージュし、度々寄進を行っていたことが伝わっている。
 鎌足の脳中には、
我が国がすでに神祇仏教という世を挙げて宗教国家へと傾いていく中にあって、儒教精神による政治立国への強い意志があり、蘇我氏との対立以前から神祇伯という「名負いの氏」の身分を足かせに感じていたようで、神祇伯任官のすすめを断って仮病を使って自宅に閉じこもったことも伝えられている。

 その悲願は鎌足逝去の前日、天智天皇は大海人皇子を使いとして大織冠の冠位と藤原を名乗る許可を与えたと「書紀」にはある。

 ​談山神社の眼光するどい藤原鎌足像​
 この鎌足の思いは河内の田辺史の許で育てられていた藤原史がそっくり受け継ぎ大宝律令を大成させ、藤原家千年王国の礎を築くことになる。
 その鎌足は、物部本宗家殲滅の後の蘇我大臣の政治的な手口をじっくりと調べ上げ、それをもっと巧妙かつ綿密に根回しし、王権の周囲を藤原で固めていった。彼は中大兄皇子とも、大海人皇子とも、壬申の乱の大友皇子とも親密な関係を築き、着々と藤蔓を王権に絡ませていった。彼ほどなりふり構わずバランス外交をかろうじてうまく乗り切った人物はいなかったと思われる。それにしても、すべてに超越する権威は法にありと確信し、儒の国の政治学を最優先した鎌足と不比等親子の先見の明はすごい。
 そんな藤原氏の繁栄は、半面教師としての蘇我氏にあったというべきであろう。蘇我氏はそれほどすごい勢力だったのである。蘇我馬子が王権の中枢にいて、蘇我氏をすべてに超越した身分としたこともちゃっかり学び取り、鎌足、不比等も律令世界からも藤原をすべてに超越した存在に仕立て上げていく。そして満を持して蘇我三代目の蝦夷、入鹿親子のちょっとしたおごり・たかぶりを大逆罪に仕立てて殲滅してしまうのだ。稲目、馬子が生きていたら叱責したであろうに、彼らの所業をただす存在がすでに周りにはいなかったことが致命的であった。​

 しかし、藤原は、中臣の出自であったこと、山階寺を興福寺として移築し
平城京における彼らの氏寺としたこと、律令の大成者となったこと、すべてを力の源として一族のものとし、神祇と仏教と政治それぞれの頂点に君臨することになる。それほどおそるべき切れ者の一族だったのである。

 この妙楽寺だが、鎌足の長子が唐の留学から戻り僧・定慧となってまもなく鎌足の墓をここに移し、十三重塔をその上に建てたことから藤原氏ゆかりの寺となったが、天台宗寺院で推移したため、皮肉なことに興福寺の僧侶たちや大峰金峰山の僧たちにより何度も焼き討ちにあっている。
 しかし、この十三重塔は後世の再建にもかかわらず、現存する木造十三重塔としては世界で唯一最古のものだとされる。
 定慧は不比等のお兄さんだが、こののち暫くして変死を遂げている。
 この爽やかな一日、10数名のムックきのこの旅人たちと思い思いに過ごしながら、私はこの山塊のきのこたちのこんな語りに耳傾けていた。
 写真は、樹の洞から顔をのぞかせた談山神社のヤナギマツタケ。この日は、さまざまなきのことギンリョウソウまでが勢揃いしてくれてわれわれを楽しませてくれた。






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最終更新日  2021年04月04日 16時57分05秒
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