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2021年04月06日
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カテゴリ:きのこ目の日本史


 わが国の史書の記述は、継体天皇の時代から俄然精彩を帯びてくるが、その継体朝にのし上がってきた葛城を強く意識した勢力が蘇我氏であった。  
 それは継体天皇が即位後も長年大和入りをせず河内潟(現大阪)の淀川べりに執着したことからも明らかである。5世紀に入って画期的な出来事の一つとして馬匹(ばひつ)文化の導入があげられるが、それは畿内では河内牧(かわちまき)と関わりがあった考えられる。継体天皇を近江の三尾(越前の三国)から呼び出したのが河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびと あらご)だったのも気になる。そしてその馬の飼育の文化を持ち来った渡来民全体を統轄していたのが蘇我氏ではなかったかと私は考えている。蘇我馬子の馬は輝かしい馬の文化のパイオニアにふさわしい命名だったと思うし、蘇我氏系の推古天皇が幼名を額田部皇女(ぬかたべのひめぎみ)と呼ばれたのも額田部が馬の額につむじ模様をもつ駿馬を産した部民に由来する。さらに聖徳太子と馬の切っても切れぬ関係を見てもそれは明らかである。
蘇我系の天皇であり仏教受容に積極的だった欽明天皇の時代に馬を用いて深草と伊勢とを行き来して水銀の交易を行っていた秦大津父(はたのおおつち)の記事も参考になろう。
 そして、その河内には太秦の地名が残されており、茨田氏(まんだし)をはじめ秦氏と同族意識をもつ氏族がひしめいていた。蘇我氏と秦氏の関係は、想像以上に濃密なのだ。
 冒頭の写真の大神神社あたりにあった近代都市の成立を画した崇神朝以来​王権と秦氏とのかかわりは濃厚だったと私は考えてきたが、それは蘇我氏の時代にようやく歴史の表舞台に見え隠れしはじめたようだ。






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最終更新日  2021年04月06日 14時51分07秒
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