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カテゴリ:きのこと発酵文化「月のしずく」
石原吉郎著『望郷と海』 石原吉郎 私の本棚には、ロシア側と日本側のそれぞれが綴った大部のシベリア抑留の記録や歴史書が10冊近くある。しかし、この石原吉郎の『望郷と海』と彼の詩集と句集が何物にも替えがたい重みをもっているのは部分読みするだけで納得いただけると思う。「月のしずく」33号には、その『望郷と海』からの一節も抜き書きして綴込み付録として入れた。 しかし、なぜ、いま「月のしずく」はシベリア抑留の意味を問い返すのだろう。それは、石原吉郎の『望郷と海』やソルジェニーツィンの『収容所列島』が、統計的数字に推移せざるをえない客観的な(疑似科学的手法)で描かれているシベリア抑留の記録や歴史書からは絶対に浮かび上がってこないもうひとつの戦後の真実を伝えているからだ。 私が目に見える世界と目には見えない世界の双方にまたがり時折、姿を現す<🍄>を介して、埋めがたく乖離してしまった科学と芸術文学に架橋する必要を訴えかけてきたのは、この事実による。科学の合理的とされる起承転結からはみ出たものにこそ生命体の真実があると受け止めてきたからである。 それが、今日、地球を見舞っているパンデミック騒ぎ、そして各国首脳たちが何の実体も示さない統計的数字に踊らされ、微視的な視点を奪われて個々の悲惨を顧みない政策に終始していることに通じるからである。 今回の致死率10%未満のコロナは、あくまでインフルエンザであって、パンデミック指定すべきものではない。このバカ騒ぎのために、これまでかろうじて持ちこたえてきた弱小の商工業者は総倒れになり、人間と人間のかすかなつながりはすべて遮断されデジタル社会へと急傾斜していくだろうことは火を見るよりも明らかだ。日々公表される感染者数に不安を増大させるばかりの市民たちに、マスコミ各社は良い頃合いとばかりに、小さく死亡者数を添え始めた。日の当たらなかった微生物学者たちのはしゃぎようはもっと悪い。それでなくても日々食べ物が廃棄処分され、さらにトリインフルエンザや豚熱で数十万羽、数万頭の鶏、豚がすみやかに殺処分され、さらに休業要請の乱発は、弱小企業を生ま殺しにし、それらの保証に赤字国債の上乗せをして、国民の税を数十年先まで食いつぶしているだけなので、後顧に取り返しのつかない憂いを残すことは必定である。 為政者は、今、あらためてA.カミュの『ペスト』をひもとくべきであろう。「右へ倣え」の付和雷同は捨てて、貧乏列島の現実をもっとしっかりと見据えなければ、コロナ一つで国際潮流の中でかろうじて生きながらえてきた列島小舟は沈没することは目に見えている。 それは、今、石原吉郎のシベリア抑留の真実をたどることによって、今の日本と世界がいかに牢獄化しているかをしっかりと把握してほしいと願うからだ。石原の綴ったシベリアの強制収容所の現実はその相同なのだ。 非力であることを顧みず、非力なままに、次の世代に対して贈る言葉をまだ目の黒いうちに語らねばという思いが、私のような脳天気な者でも感じるくらい、人間社会は荒廃しはじめているのだ。 そして、もっと非力な<異>を冠した石くれの大戦殉難異民族慰霊碑も、私は高度成長期の始まりにひょっこり頭をもたげた🍄だと考えている。この石くれの意味がようやく見えてきたのが戦後76年を閲した昨今だと改めて受け止めている。この石くれがそれぞれの意識の中でさざれ石となるまで、今しばらく昭和の日の集いを続けたい。 私には荒廃した野山や巨大都市の方々から、そしてさらに荒んだ人間の心の闇からきのこが続々と頭をもたげてきているのを目の当たりにしてきた。 かれらはその修復不能に見える世界の界面から静かに立ち現れるが、実に美しい姿を示してきた。 このきのこが立ち現れる間は、まだ希望はある。私は、この35年の間に、彼らが立ち去ってしまった森のそれからを実にたくさん見届けてきた。 私は、そんなきのこたちをジャンルを超えて、可能な限り見つけ出し「月のしずく」で拾い上げ、希望をつないでいきたいと思っている。 そんなきのこ目を養うためのムックきのこクラブの旅もまだ少しは続けることができるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月23日 10時46分37秒
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