良弁僧正は、大佛開眼以来、東大寺初代別当職をしばらく勤めて、それを辞退したあと近江国の勢多の石山寺の創建に関わり、宝亀4年(773)の閏11月16日に85歳の当時稀に見る高齢で宇陀郡賀幡(川股を経て現・伊賀見)の開善寺址辺りで入滅したとある。続日本紀の宝亀4年の項には、弔問使を出し、遺骨を集めて改めて埋葬したらしい記事が載るのみ。
が、僧正にまで上り詰めたにもかかわらず、高僧の卒伝は残されておらず僧綱の規定するところの褒賞の記事もない。したがって、その生涯は生まれから死に至るまで曖昧模糊のままだ。
しかも伊賀、三重方面への旅の途上で亡くなっているのは益々解せない。伊賀といえば、敢国神社のある阿閉氏の眷属を訪ねる旅の途中であったのかと想像されるが、この伊賀の地は忍者ハットリくんの、すなわち麻の織物を伝えた服部(はとり)部の本拠地で、さらに大半が代々東大寺の荘園であったところだ。聖武天皇の紫香楽宮の所在地の甲賀の郷も伊賀同様、自治意識のとりわけ強い郷で、のちに観阿弥・世阿弥を生み、楠正成などの中世の悪党(=荘園の名目上の所有者に反抗的だった在地小豪族)と縁の深いところである。とすれば、秦氏の匂いがきわめて強い土地柄である。この地の謎を探る旅もこれからまだまだ続く。