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2021年05月05日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

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 高津の宮は、そもそもはアカルヒメを祭る神社だったが、仁徳天皇の河内王宮の地を秀吉が大阪城築城の際にこちらへ移転し、ヒメコソ神社を摂社にかえ地主神としたという経緯がある。
 私は難波の俳諧史を調べる上で西鶴や蕪村ゆかりの地としてここへは数度訪れているが、会員のSさんに教えられアカルヒメ伝承の地としてあらためて2015年3月末に訪ねて新たな発見があった。


 ​新たな観点から訪ねた高津の宮は桜の花が開き初む旧暦・如月の季節だったと覚えている。​



 そこには確かにヒメコソ神社が摂社として祀られていた。平成天皇が「ゆかり発言」で語られたように、現在の天皇家は桓武帝の母の高野新笠につらなる百済王(くだらのこにきし)の末裔との自己認識があり、神功皇后にみられる新羅系あるいは葛城系の海洋民の流れは抹消される運命にあったことは古代史の流れをみれば歴然としている。

 高台にある神社の東側の谷筋にある谷末社へ降り立ってそれは益々あきらかになっていった。こちらはいわゆる淫祠邪教の類いとされる陰陽石のメッカだったことだ。このあたりに神功皇后、応神、仁徳という日本海海洋民の系譜につらなるもうひとつの皇祖の流れを故意に貶める意図がみられるような気がしないでもない。
 しかし、縄文・弥生の農耕のはじまりの時代には豊穣のしるしとしておおらかであった性器信仰も、時代が下るに従い、猥雑なものとして遠ざけられるようになったが、それは芸能の分野にひそかに継承されていき、もう一つの歴史の流れを刻んでいく原動力となったものだ。




 ​したがって、これは何も目くじら立てて怒ることではなく、猿田彦、アメノウズメに連なる芸能神の系譜として今日まで脈々とつらなっていることを思えば素晴らしいことだ。
 江戸期にはこの高津の宮は芸能人たちのサロンとなったことにも、それはうかがえるし、日本史はそれこそ多くの人財の流れによって支え合って今日まで来たったのであり、
私からすれば抹消されたとみるよりもそれぞれが自身の生きる根拠をどこに置いたかによるように思われるのだ。
 平和を望んだ人たちの流れがこうした形で政治史の覇者の興亡と伴走する形で命脈を保ってきたことを21世紀の私たちはもっとしっかりと再認識する必要がありと思われるが如何なものだろうか?!。






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最終更新日  2021年05月05日 12時21分55秒
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