コロナ禍で、とてもありがたいことに本格的な独り相撲の季節の真っ只中にいる。
そんな日々を私はキノコの初心に立ち還りJ-FAS日本キノコ協会設立の主要な動機となった今福龍太の『クレオール主義』の再読をはじめている。
かってかって読み耽った本書は、写真左の1994年発行の改定版表紙のものではなく、1991年刊行の右の小さい図像の初版のものだ。ジャズを熱帯音楽として掘り起こし始めていた頃でもあり、🍄と自覚的に出会ってから5-6年が経ち、きのこを探しに森へはいっていくことはすなわち生物世界との結びつきを深めることだと考え、高知の「森ときのこを愛する会」や丹後の「きのこクラブ」の設立に関わり、奈良きのこクラブや川西きのこクラブを作り、さらにキノコをつくる菌類に固有な<ヘテロ>という細胞特性について思いを馳せているまさにそのときに書店でーThe Heterology of Cultureーの英語の副題がわが小さい目玉に飛び込んできたのだ。初版本は人の手から手へと回し読みされる間に帰って来なくなり、やむなく改定本を買い求めたが、改定本にはそのためのあとがきもあり、これはこれでありがたいことであった。
今福の『クレオール主義』は、<場所(トポロジー)論>に始まり、<プリミティブ論>、<越境論>、<混血論>、<ヴァナキュラー論>、<逃亡奴隷論>、<クレオール論>、<ポストコロニアル・フェミニズム論>と、当時も今も、事あるごとに山火事のように再燃する社会哲学的な問題群を網羅しており、今でも一言半句もさらりと読み流せない重みを湛えている。
私がきのこを分類学への貢献から始めて、やがてきのこを愛するがゆえにきのこと不即不離の関係を保ちながら、<場所の記憶>を辿る旅を続けてきたことも、さらにはヘテロ芸術を愛する所以も、この書には随所にちりばめられていて私個人がこの著書につけ加えることは一つもないくらいだ。
それは、彼がリプレゼンテーション(記述=再提示)を重視したことを、私はもう少し広げて、ヘテロ芸術としか言いようのない<きのこ>や<幻獣>に敏感なアーティストたちの集合的無意識から生まれるアート作品を重視し、ギャラリーきのこを展開しててきたことの理由でもある。
今福はそれを文化的ノン・エセンシャリズムとしてここで以下のように語っている。
<ノン・エセンシャリズムとは、表現やレトリック(修辞)といった文化の表象的なレヴェルをもっぱら問題にする立場で、それは戦略と呼ぶべきだ。エッセンスの存在そのもののデリケートな政治性に疑いを差しはさむことなく、エッセンスの神話の上にあぐらをかいたような従来の社会科学のディスクール(言説)のなかで見えなくなったものを明らかにし、「事実」や「実体」がこうむる政治的・詩学的なプロセスを表面化させるためのひとつの戦略としてノン・エセンシャリズムはあるのだ。
現実を「疑いうる」ものにとどめておくこと。疑問のない、還元主義的な「本質(エッセンス)」に異議をとなえること。これこそがノン・エセンシャリズムの戦略にほかならない。>
少なくとも私が関与してきたヘテロソフィア・ムーヴメントとはそのようなものであった。
ひとり相撲はまだまだ続くが、少なくとも『月のしずく』では、これまで私の考えてきた菌類の夢の形である🍄を解読することを通じて、今福の言葉に生涯無縁な人たちとの間に架橋するためのきっかけづくりを続けたい。
なぜアマチュアの生物愛好家が、対米従属や天皇制度を問題視し、遺伝子操作や厭戦を訴え、異民族慰霊祭を斎行し、芸術と民藝の間に架橋するための努力を続け、さらに夜の顔不思議な俳句会でアーティストたちの言葉の修練に拍車をかけるのは、すべて🍄とはじめて出会って以来のこの不思議な生き物に対する私の直観に支えられてきたものだ。
それは、糸状体菌類の1細胞に等しい私たち庶民の集合的無意識として生産されつづけるアート(すなわち🍄)に作家本人がそれにふさわしい言葉を与え、その上でゆるやかなつながりの輪をひろげていってほしいとの願いに基づいている。いわゆる<おたく文化>と言われる特殊化進化は、一般化進化の道筋にその特殊な良さをいささかも損なわずにつなげていかなければ袋小路に陥り、やがて消滅することは自明だからだ。
高度に凝縮された言葉で脱構築しつづける今福の『クレオール主義』の内容は、そのままでは庶民の私たちに浸透しない。
そんな今福の戦略をより広汎な人たちの共有財産とすべく具象化したものが私にとっての🍄であった。
特殊世界の生きものである🍄は、それにふさわしい普遍的な、しかし非権威的な位置づけを待っている。それを今しばらく訴え続けていきたい。
そのためにも私と共に歩み続ける人はぜひ、今福の『クレオール主義』を手に取っていただきたい。