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2021年05月25日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

 アカルヒメの伝承を伝える4つ目の場所は、大阪市平野区の杭全神社にあるというので訪ねてみた。

 この杭全神社、郷社と思いきや、とても立派な神社で氏子の活動もとても活発なようだ。鶴橋のヒメコソ神社の辺りは渡来民らがもたらした養豚場に由来する猪飼野の地名が残り、その南に生野の地(生野という地名には深い意味がこめられているように思える)が広がり、その南の大和と河内の要衝の地に杭全神社はあった。杭全神社からやや西北部には百済という町名も残っており、渡来氏族のコロニーであったことが偲ばれる。この杭全神社は平安初期の坂上田村麻呂の子の広野麿が朝廷より杭全荘を賜り、この地に居を構え、貞観4(862)年に、素戔嗚を勧請して祇園社を建てたことに始まるという。住吉社もあり、何となくヒメコソがここに鎮座するのも理解できる。田村麻呂は百済系渡来氏族だし、喜連瓜破に名を残す呉の織工集団の喜連氏、やや東には鞍作氏もいて渡来系の先端技術都市だったようだ。
 これが征夷大将軍の田村麻呂の霊を祭る祖霊社の田村社。そもそも平野区の地名も坂上広野麿の広野から転訛したものということなので、いわゆる開拓民のボスということだ。この人物を機縁とし、次々に神々を勧請して杭全神社は膨れ上がったものと思われる。
 そしてアカルヒメの神社は、若い権禰宜に聞くとこの境内にはなく、ここから更に数キロ南東方面へ行った平野東町にあるといい、わかりにくいのでといって親切に詳しい地図を描いてくださった。

 この境外末社の赤留比売神社も訪れる人はまれだが、とても立派な佇まいで感動した。

 本殿もこのように立派なものだった。下の写真でおわかりになるように、この社殿の裏手には、平野郷が堺同様に中世には自治都市であった名残りの土塁が築かれており、今は公園になっている松山池もあったという。

 ​写真左の小高い部分が土塁の名残りでその向こうの公園(写真下)が松山池だったようだ。​

​ さて、アカルヒメ伝承を訪ねて、平野区までやってきたが、​杭全神社は河内王権の歴史を探るうえでまた重要になってくると思われるが、姫神に関しては、道具立てはすべて揃っているが、それは氏子たちの努力によるもので、アカルヒメの生息地としては、後付けの感はいなめない。
 私がかくまでこのヒメにこだわるのは、大和王権には2つの王統があり、この流れが入り乱れつつ、交替劇を繰り返しながら、奈良時代を迎え、平安期に入ってついに百済系氏族でトップが独占されることになったと考えるからだ。 
 田村麻呂は桓武天皇の時代の異族征伐の最先鋒隊として平安初期の渡来系氏族の最期の栄光を担った人物だ。
 そんな流れを背景に於いて新羅皇王子の妻としてのアカルヒメの動向を見つめてみるといろいろなことが見えてくる。この小旅行はそんな意味でどきどきわくわくの連続だった。
  7月には、できれば近つ飛鳥の地を訪ねて、応神、仁徳に関してそこのきのこたちとじっくり対話したいものである。






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最終更新日  2021年05月25日 18時41分35秒
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