現在展示会場は閉鎖中だが、丹波立杭には丹文窯があり、辰砂を用いたと思われる鮮やかな赤色を呈した陶芸が目を引いたものだ。(写真)
古代には、この辰砂から仙薬に不可欠な金や水銀を分離抽出する技術をもった赤染を名乗る集団が『魏志倭人伝』に紹介された豊後国・英彦山近くの香春岳の秦王国に居住していた。香春岳の元八幡神社の神職にその名をとどめている。朝鮮半島の伽耶や大陸から渡来した秦氏たちはこの山の麓で道教臭の強い仏教を奉じ、のちに八幡信仰の物語を紡いでいくが、赤染氏はその秦氏の中から出て染色や画工の技術集団となり記紀の時代に活躍する。
この赤色の染料は魔を防ぐ効力をもつと信じられ古墳の内壁に彩られたりもしてきた。我が国古来の死者の魂が赴くところとしての常世の国や妣の国といった縄文以来の他界観は、この頃すでに民間道教の不老長寿思想と習合して、現世利益をもたらすものに変貌していた。赤染氏が国史の中でたびたび常世連(とこよのむらじ)を賜姓されているのは、そんな事情をものがたっている。
『日本書紀』の蘇我入鹿が乙巳の変で殺害される直前の皇極3(644)年7月に大井川のほとり(遠江蓁原郡=とおとおみはいばらぐん)で大生部多(おおふべのおお)が蚕に似て緑色に黒班をもつナミアゲハの幼虫(常世の虫)を祭れば富と長寿が得られるという今でいう新興宗教を興した記事が唐突に掲載されており、秦河勝が民衆を惑わすとして怒り大生部多を討ったという。
河勝が聖徳太子のブレーンとして登場したのが物部守屋との戦さの折であるからすでに70歳に達した頃の事件簿である。ここでの常世は、まったく道教的なものに転じている。蘇我氏・厩戸皇子とともに仏教を国教化する流れを作ることをライフワークとしてきた秦氏の内部からこのような分派が発生したことは河勝としては許しがたいものと感じたのだろう。
それが蘇我氏本宗家暗殺の直前にさりげなく挿入されていたことから関裕二氏は、蘇我氏暗殺に河勝が直接関与したことをほのめかす記事とうけとめているようだ。
この乙巳の変前夜までに、聖徳太子の上宮王家はあろうことか蘇我氏によって殲滅させられ、河勝を首領とする葛野の秦氏はすでに蘇我本宗家から離反していたことは十分理解できるが、乙巳の変前後から、河勝は姫路近郊の他斑鳩を目指し、坂越に上陸、死して祟り神となってしまいます。
そののち葛野の秦氏勢力は長岡京遷都までなりをひそめてしまうことにはもっと別の意味があったと私は考える。
物部守屋討伐で政界を牛耳った蘇我氏が秦氏たちの協力を得て崇仏政策を強力に推進する中で、守屋に代わって中臣鎌足がその動きを不快に思っていたこと。それに百済贔屓の鎌足が、中大兄皇子(のちの天智天皇)に近づき、アジア全体とのバランス外交を目指す蘇我本宗家との対立を深める動きが重なり、排仏崇仏の争いが、百済シンパ対新羅シンパの覇権争いに変貌していく中で、ついには天皇家を殲滅させる暴挙に出た蘇我本宗家から秦氏が離反していったことで乙巳の変の勝敗は決してしまう。
秦氏たちは、そんな覇権主義とはまったく別の観点から仏教政策を推進することを考えていたので秘かに民間に浸透し、政治の表舞台とは異なる流れを形成していったと思われる。その流れが神功皇后、応神天皇の物語形成とその現実化である宇佐神宮へとつながっていく。
日本書紀のほのめかし記事は、さらに神功皇后を卑弥呼につなげたい意図をもって正史にこの皇后の摂政期を書き残している。
蘇我氏は乙巳の変以後、石川姓のものが政権中枢に残るがやがて排除され、赤染氏は常世連として日本書紀には、シャーマン医から典薬の司として命脈を保っていく。そしてふたたび香春の地から新たな動きが始まるのだ。