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カテゴリ:ヘテロソフィア・アート
歌謡曲はいつの時代もどこの国でも、惚れたはれたと別れと出会いがお決まりの相場であることは変わりない。しかし、恋と酒にそそがれる一途な愛は民衆の魂のぎりぎりの表現であることには変わりない。 ペレストロイカののち、ソビエト連邦崩壊の政治的・経済的混乱であわやロシアの国家そのものが消滅するぎりぎりのところまで追い詰められた90年代、ロシアが再生のきっかけをつかんだのは、私はロシアンポップスの下支えがあったからと確信している。写真上はグループ・レサポワール(森林伐採地の意味)のM.ターニチ、写真左はアーラ・プガチョワの正統な後継者と考えるエレーナ・バーエンガ、写真右はヴーカ・ツィガノーバ、写真下はアレクサンドル・ローゼンバウム。彼らはいずれも矛盾を抱えて暴発寸前だったソビエトをロシアの大地に軟着陸させた主役級の歌手やシンガーソングライターである。 さらに、このミハイル・クルークは、ルースキー・シャンソンの旗手的存在で上記の多くの音楽家に多大な影響を与えた。 ルースキー・シャンソンという耳慣れない名称は、ペレストロイカ以後、続々と恩赦で釈放されたわけありの人たちが自由の素晴らしさを歌ったことから始まりノヴィコフがたしかコンサートで提唱したものだと記憶する。 フランスのシャンソンとは似てもにつかぬ無頼派の歌謡曲で、マフィアの跋扈する無法時代の底辺の民衆詩とでもいうべき性格をもっていた。これが民草としか呼びようのない社会の底辺に棲息する人たちに圧倒的な人気を博したのはいうまでもない。 さきほどのエレーナ・バーエンガは、ルースキー・シャンソンの女性歌手として登場した。 また、アレクサンドル・ローゼンバウムは、80年代のロシア知識人階級に人気のあったブラート・オクジャワ、ヴィソツキーのさらに下層にうごめく市民の魂を代表する歌手で、ルースキー・シャンソンのひとつ前の世代に当たる。ユダヤ人であるため庶民の間でも賛否が分かれるが、彼のマッチョで明晰な歌声は不毛なアフガン戦争でゆらぐソビエト社会にとって、いい意味でも悪い意味でも必要不可欠なものであった。 いずれ、ラボMでも、「月のしずく」でも、ソビエトは歌の力でロシアとして蘇生を遂げたことを熱く語りたいと考えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年07月16日 21時37分41秒
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