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カテゴリ:マダラーノフの独り言
秋の到来を思わせる雨模様の天気がここ数日続いている。 飛行機雲の空がなつかしい。去年半ばより労働日が世人と正反対になって以来、サンデー毎日の週日は図書館通いが多くなった。 といっても図書館はコロナ自粛中なのでそこで借りだした本をマクドナルドでノートする形になる。 目下、斉明天皇の頃から宮廷歌人として登場した額田王のことにかまけている。天武と結婚しのちに天智と再婚し、壬申の乱後は天武朝で柿本人麻呂や山部赤人などに強烈な影響を与えてひっそりと世を去っていった。次号の「月のしずく」36号ではこの額田について考えてみたい。 それは私のライフワークである<人類史の中のきのこである秦氏>に深くかかわる氏族だからだ。まずは一見何の関連もなさそうな額田王の「あかねさす むらさきのいき しめのいき のもりはみずや きみがそでふる」<茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流>あたりから調べはじめたが、この額田から意外や意外の事実が次々と浮かび上がってきた。 馬や牛がこの列島に入ってきたのは5世紀以降で、それ以前はこの列島には馬も牛もいなかったので、馬匹文化は、今でいうところのロジスティック(流通)の要の産業であったこと。その馬の文化と蘇我氏が深く関与しているがわかってきた。 蘇我氏2代目の蘇我馬子、聖徳太子は厩戸皇子、推古女帝はそのそのものずばり額田部皇女で蘇我系の王族がしばしば馬と関連のある名を負っていること。そんなことがじんわりと浮かび上がってきた。 ただ国史の『日本書紀』には額田王のことは、天武紀2年2月条に「天皇、はじめ鏡王の女、額田姫王を娶って十市皇女を生む」と1ケ所あるだけで取り付くしまが見事なほどない。それを補うのは万葉集しかないので、初期万葉集をひもときはじめた次第である。今月のムックはさざなみの滋賀の日野川(現蒲生川)の雪野山(行幸の山の意味)巡りなので、ひたすらきのこの声に耳傾けながら歩きまわり、小文にまとめたいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月08日 15時06分03秒
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