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カテゴリ:きのこ目の日本史
秦氏が政治の舞台に現れたのは欽明天皇期以降で蘇我氏の時代にピタリ重なる。私たちの教えられた日本史では蘇我氏は国賊扱いであったが、蘇我氏の活躍した100年余りの間(蘇我系の王朝とされる欽明から皇極朝)に彼らが我が国の文化創成に果たした業績は簡単には拭い去ることができないくらい大きい。それが秦氏たちの後ろ盾を得てのものであったことは見落としてはならない。 蘇我氏本宗家は三代目に至り壊滅するが、それは常に物部、中大兄との対立がクローズアップされるだけに終わっているが、その背後にはいつも中臣氏がいたこと。したがって、冷静に眺めてみると古代の日本史は蘇我対中臣の覇権争いであったことが見えてくる。そして、中臣氏は蘇我氏と同じ手法を採用して政権中枢に繋がり、律令を盾にのし上がっていく。最終的には神祇伯の中臣から律令制導入にすべてを託し改姓した藤原氏の千年王国に絞られていくのだが、その間、職能集団であった身分の低い秦氏たちは律令制度の外で命脈を保つあらゆる手段を講じていったと思われる。 それが秦氏たちの夢みた仏教であり、伎楽演芸の道であったのではないか。そんな視点から初期万葉の代表歌人の額田王も読み解きたいと思っている。 写真は、立杭から見た丹波篠山の中心部からやや東北部へ外れたところにある味間集落のかんなび山の白髪岳である。お隣りの小峰は松尾山。いずれも頂上部には立派な磐座がある。ふもとの味間は奈良盆地の田原本町の味間を、松尾山は京都嵐山の松尾大社を、白髪岳は白鬚や新羅をただちに想定させる。いずれも秦氏にゆかりの深い地名ばかりである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月09日 23時31分39秒
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