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カテゴリ:きのこと発酵文化「月のしずく」
雪野山北端の安吉(あぎ)神社あたりでみかけた揚羽蝶 天皇家が度々訪れたことから名づけられた雪野(御幸之)山(308m)とやや南西の鏡山(384m)の間の日野川流域に広がる野面が、いにしえの蒲生野とされる。この地には白村江の闘いで大敗した中大兄が急ぎ近江京へ遷都して即位、天智天皇となった後もより安全で豊かな宮処の選定に訪れ、それは桓武天皇の平安京に至っても続けられた。その際の行宮跡が雪野山のやや南に近年次々と発掘、新史実が掘り起こされてきた宮井廃寺跡と考えられる。 大海人皇子(当時の皇太子)と額田王の「野守は見ずや君が袖振る」の相聞歌は、その薬草採取の遊猟の際にこの蒲生野で交わされたもので、額田王はこうした王族お抱えの湿原祭祀の巫女であったと思われる。 この額田(ぬかり田=泥濘田)の名前を冠した一族は、神功・応神の敦賀・若狭王朝の再来とされ河内王朝を継いだ継体天皇以来の王族と神々の間をとりもつ巫女であり、当時、最新・最先端の産業であった馬飼い(今で言うところの運輸・ロジスティック)に深くかかわる集団であったと思われる。 今は竜王町に属する日野川(かっては蒲生川と呼ばれた)と桜川とが交わるあたりに広がる沖積土壌の蒲生野は、山々より運ぶ出す砂鉄資源と紫草をはじめとする薬草園が広がり、新京にふさわしい土地柄と考えられたのであろう。雪野山の帰途は北東部の羽田神社のある西羽田(にしはねだ)バス停から乗車したが、この神社は明治までは牛頭大王を祭神としていたというので、羽田すなわち秦氏の関与がうかがわれる。さらに、この近江八幡側以北の愛知川流域には秦荘があり、摂津の猪名川流域と同じく秦氏たちが積極的に入植、開墾した土地柄でもある。 雪野山のさらに南には金勝山系がひろがり野洲川流域の石部町から紫香楽へと天平期の傑僧・良弁らが活動の拠点とした山々がつらなっている。 その土地土地をめぐりきのこたちの声に耳傾ける私たちのムックの旅も徐々に深まりをみせ、決して一筋ではありえないはずの日本史のもうひとつの人々の流れが浮かびあがってきたことをひしひしと感じている。 この史学の手法では決して明らかになることのないもうひとつの大河の流れをそれぞれの土地を訪ね、生物学のきのこ研究の手法を援用しながらあぶりだしつなげていく試みを形にすることこそが私のライフワークであるのだが、そのさわりの部分でも示し得たらこれ以上の喜びはない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月15日 10時56分39秒
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