私たちの今日ある姿というのは、日本の歴史の中で文化として育まれてきたもので、それは上から与えられたものと下から積み上げられたものがあります。私はそれを微生物・きのこの生態を学ぶ中で痛切に教えられました。生物学にも上から辿る方法と下から突き上げる方法が厳然とあり、学問上の差別があることを痛切に感じてきました。きのこの場合はさらにそれにたずさわるもの自身がそのきのこへの関心を博物学や生物学全体へと広げることを好まずひきこもり傾向にあることがますます生物学の中での位置づけを困難にしているのはとても残念なことです。
民衆の文化を総体的にとらえる方法は、網野善彦さんによって示されましたが、彼の小作農、職人、芸能民など漂泊を余儀なくされた底辺に生きる民のリアルな把握にはとても刺激を受けたものです。
彼のしめした散所、別所という化外の地を中心に布教活躍をしたものが鎌倉期に貴族のための仏教を民衆のものとした法然であり日蓮であったことはきわめて重要です。江戸期の俳諧の大成者芭蕉も文学を支配階級の特権であった詩文学を庶民のものとしましたが、ここには三重県・伊賀の安倍氏(阿閉氏)の後裔の忍びの者たちの支えと関与があったと思われます。この伊賀の地は秦氏たちが入植し拓いた土地柄で観世親子を輩出した地であったことも重要です。
そこには、おびただしい数の秦氏たちの存在があったとみて、彼らの日本歴史における宗教文化史、民衆芸術史の観点から歴史を捉え直すことを考えてきました。安倍氏と秦氏は初期天皇家を支えた海洋民らによる三輪山・河内王朝以来の深い縁が感じられます。
それを明らかにするためには地表下で働くミクロ生物の真菌類が時折夢を託して作り上げるきのこを、彼らが世に送り出したその時代時代のスーパースターたちに見立てて、そのスーパースターたちからその背後の勢力をあぶりだす方法はないものかと考えてきました。
秦氏は聖徳太子の時代に政治の表舞台に現れましたが、飛鳥時代の蘇我氏から室町時代の世阿弥までそれぞれの時代のスーパースターを世に送り出し、彼らに夢を託したことはほぼ定説になりはじめています。しかし、それを明らかにするためには歴史学の方法ではどうしても限界があり、なにかそれとは異なる方法で明らかにしていかなければならないと思ってきました。
この日曜日、いつも古書店から掘り出し物を見つけ出し届けてくれるS画伯から青土社・現代思想の生まれたてほやほやの特集「陰陽道・修験道を考える」(462ページ)をプレゼントしていただきました。
秦氏の文化史を考える上で欠かせないのが修験道です。それも空海、最澄の密教導入以前の<山の宗教>たる雑密時代の山林修行者たちの動向こそが我が国の宗教文化の基層となるものです。彼らは秦氏たちの主導により稲荷信仰や八幡信仰に深くかかわる形で民衆の宗教文化、すなわち当時の総合科学としての宗教文化をきわめて緻密に創り上げていきます。日本全国どこへ行っても八幡神社、稲荷神社がわんさかある事でもそれはお分かりいただけると思います。
私の原資料は大和岩雄(おおわいわお)の『秦氏の研究』ですが、今もっとも信頼のおける秦氏研究は、1962年滋賀県大津市生まれの水谷千秋(みずたにちあき)さんのそれがきわめて示唆に富むものです。
人間のいのちに限りがあることに最近ようやく気が付いた私にとってどこまでいけるか判りませんが、とりあえず私なりの手法で行ける処まで行ってみたいと考えています。
S画伯いつも貴重な資料をありがとう。