小学校高学年の時に佛教と出会い、在家であることの大切さを学び、中学時代にニーチェを知り、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やパスカルの『パンセ』で、西欧文明の圧倒的な深さを思い知らされ、それがキリスト文明を基層にしていることに気づかされました。マルクス、ダーウィンもしかりです。
そして、ジャズと実存主義と山恋いにまみれた高校時代。神と向き合い、どう自分なりに神を乗り越えるかについて悩み、カミユの『反抗的人間』、『死にいたる病』のキェルケゴールで西欧の唯一神教としてのキリスト教の超克こそが私の終生のテーマだと気づかされました。
エールリヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んだのは大学1年生の時でした。
実存主義から得た唯一の思考は<単独者>という言葉でした。いかなる場合でも孤立無援の単独者として世界に向き合うことでしかあらゆる問題は真に解法を導き出せないと思いいたったのです。そのころ新田次郎の『単独行』が山岳雑誌・ヤマケイで連載がはじまり神戸で活躍した単独行者・加藤文太郎にも憧れました。それが30代に入って社会生活に埋没する日々の中でアルビニズムとしてのスポーツ登山を卒業せざるを得なくなり、魚釣りや端山の登山を続ける中できのこと出会ってびっくりしました。私が思い描いてきた理想の生き方をしている生物が現実にこの世に存在するんだという驚きです。
「月のしずく」の<きのこのイコノロジー>では、巨大な微生物・きのこという面白い生物をひたすら観察し、それを権力や権威とはまったく無縁の民衆芸術や民衆文化という手法で、飽くなき欲望という名のマッス(マスコミをはじめとするさまざまな塊)に微細な穴を穿ち、暴走・膨満に歯止めをかけるための基礎理念を提示しはじめています。
コロナ禍は、私にとってはこれまでの半面教師としての人生を終了し、単独者として生きなさいと教えてくれているように思えてなりません。
ゴルゴサーティーンの斎藤さんも亡くなったことですので、次年度からは益々自由奔放に、益々ハチャメチャに単独者としての晩節を全うしたいと考えております。