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カテゴリ:マダラーノフの独り言
この夏、上高地から槍ケ岳に登った友人からおみやげにきのこラベルの吟醸酒をいただいた。 単独者とは、真の実存をめざす人すべての代名詞である。 職業的には、文学者、詩人、アーティストに単独者であろうとする傾向は濃厚である。それがいつのまにかお団子になり、やれ俳壇だ、文壇だ、画壇だと徒党を組んで組合活動みたいなことをやりはじめる。群れれば蒸れるし饐えるのは世の常である。発酵と腐敗は紙一重。月のしずくの基調である。 「あわれ秋風」の世界、君子は危うきに近づいてはならない。 一方、近年政治の世界でしばしば多様性を口にするがそれは全くおかしい。権利獲得や権力を志向するということはそれが弱者擁護のためのものであれば必要悪でいたしかたないが、多様性とは全く真逆の行為なのだ。決してまちがってはならないし、だまされてはならない。権力や覇権を握るということは一極支配を志向することで、いつの時代でも不変であることは歴史が物語っている。与党も野党も権力を握れば同じ顔になるのはいたしかたのないことなのだ。 それは大衆というものの変わらぬ意志であり、大衆の意志を体現するのが王であり指導者であるからだ。民意の代弁者がいつの時代も王であり、民主主義もアンチ多様性を志向するものであることにはいささかも変わりはない。権力とは所詮マッチョ(男っぽさ)の中にしか存在しえない。 一方、私たちの理想とする単独者とは、専制主義とは正反対のベクトルをもつものである。そして太陽と月の二つの原理を二つながら体現するものである。それは常に少数派であり、いかなる共同体からも部外者であり続けることなのだ。そして大衆の意識改革を抜きにして真の変革はありえない。 しかも、決して大悟してはならない。娑婆世界に首まで浸かりながら「ちょっと背伸び」を続ける人のことだ。 それが釈迦の教えであり、大乗運動の中で、今の日本のような状況を憂いて生まれてきたのが『法華経』だと私は受け止めている。その法華経に描かれた菩薩こそがきのこなのである。 従地湧菩薩(だいちよりわきいでたるぼさつ)。釈迦は弟子たちがこの娑婆世界の法主となりましょうという願いをすべて退けたとき突如として大地を割って出てくるものすごい数の菩薩たちがそれである。私は、コンクリートを割って出てくるヒトヨタケをただちに思い浮かべたものだ。 私が仏教において在家を重要視してきたのはそのことのためである。『法華経』の少し前に編まれた『維摩経』はその在家仏教者に光をあてた教えであった。この2経典は、古代社会においてすでに聖徳太子が注目した経典である。 私が口癖のように語る「ちょっと背伸び」とは、自身と身のまわりの世界を常に流動の相においてとらえること。一般大衆からいち抜ける機会を常に伺い努力を続けること。この単独者としての基本の上に立って社会生活(娑婆)を切り抜けていく態度こそが菩薩行であり、賢治が目挿したデクノボウであり、妙好人である。 社会というものが無視できぬ形で迫り始め、唯識という没社会的な発想では機能しなくなった時代に生まれた利他の精神こそが大乗の教えであり、それは矛盾に満ちたものであった。個人と社会、それは相容れない絶対矛盾なのだ。 私の関与する会はすべて単独者の集まりを前提としている。かっての日本キノコ協会にしても、ムックきのこクラブにしても、夜の顔不思議な俳句会にしても、人はどうあれ、私はつねにそうした態度で臨んでいる。先生とか指導者は常に非在である単独者同士のちょっと背伸びのサロンなのだ。 美味しいおさけのついでに単独者について付言しておく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年10月06日 23時42分53秒
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