アートというものの多面性はいまさら言うまでもないが、私はそんな多面性をもったアートの中でもとりわけアートする志を最も大切にしてきた。その志を最も深いところで支えているのが「遊び」の精神である。通常アーティストとしての大成は、絵画の場合は、1号○×ドルという評価で決まり、アーティストはその兌換紙幣的な数値が作家の客観的な値打ちとなることから必死で腕を磨く。それはそれで素晴らしいことだ。しかし、そうした画商が介在する余地を残したアートだけがアートではない。
それを痛快な方法で世に示したのが茶の湯の利休である。土くれ同様の茶器や竹製品を積極的に評価し、つゆの世を生きる戦国武将たちを熱狂させた。命がけの遊びとして広まっていったのだ。
その侘び・さびの精神は江戸期に入って芭蕉の俳諧によって儒教的教養を身に着けた士分を中心に起こり、やがて新興ブルジョアジーの商人たちを介して、士・農・工・商・賤の身分制度の壁をすり抜けて庶民層にまで浸透させていく。それをピタリと全身で受け止めて柳宗悦がフィリップ・モリスなどと共振しながら近代世界で「民藝」運動として確立させていった。
画商のつくアートとそんな評価と無縁に厳然と存在する生活の必然から生まれるアート、さらに「あそび」の精神にのみ支えられて生まれてくるアート。それらに共通するものは、アートする、あるいはアートしたいという切実な人間の志ひとつなのである。そのことを私はきのこに教えられて生きながらえてきた。わたしが考え、楽しんできたアートとは、ジャンルを超えて、技法を超えてアートするこころざしをひたむきに、真摯に、追求する作品を生み出す作家たちである。作品はその精神の軌跡なので。決して私蔵してはならないものだ。
「夢みるきのこ」や「月のしずく」とは、そうしたすがしいこころざしをもった人たちが、この世に確かに存在することを知らしめるおそらく唯一無二のメディアであると思っている。
この多頭獣・キマイラの多面性こそがアートの真髄なのだ。<スペース○○>や<スペース草>も<ギャラリH・O・T>も<現代クラフトアート>も、これから述べる<Nii Fine Arts>も<アート・マルシェ=アート市場>も、私にとってはいささかの差異もない<アートする志の有る無し>でのみ評価が決まる正真正銘のアートなのだ。
さらに、そのアートが庶民に帰属するものであることこそが、私がきのこと向き合い対話しつづけてきた最大の理由である。
そろそろ「月のしずく」でもその本音のところを語り始めなければならない時代に入ったようだ。