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カテゴリ:きのこと発酵文化「月のしずく」
きのこ好きが「きのこは奥が深い」というのは、それは単にきのこと真剣に向き合ったことがない事を語っているだけです。 胞子をつくり飛ばすだけのタワーにすぎないきのこはどう見ても薄っぺらい奥行きのない世界でしかありません。 たとえば、アイシメジにしてもこのニガクリタケ(写真下)にしても、きのこに長年親しんできた人であっても、即座に同定し種名を言い当てることは難しい。しかし、それは奥深さとは関係なく単に経験知が不足しているだけのこと。 前回、アイシメジ(写真上)で触れたようにきのこはまさにアイ(合間)そのもの、あらゆる世界に帰属することなく、あらゆる制度から抜け落ちる存在であるからこそ奥深いのです。 私がきのこに魅せられてうん十年前、最初に開いた写真展のタイトルは「きのこ夢幻」でした。 私たちのきのこと発酵文化の小冊子『月のしずく』のタイトルのどこにもきのこが入っていないのもきのこを媒介者・仲介者ととらえているからです。しかし、一読すればおわかりのように全編<きのこ>そのものです。 きのこに実質や実体(さらに実益)をみようとする人は、どこまでいってもきのこと遂に出会うことはありません。私からすれば無いものねだりも甚だしいというしかありません。きのこは空疎そのものだから面白いのです。 きのこの栄養価値の乏しいことを逆手にとってダイエット食品として売り出したきのこ産業は飽食の時代に突入した日本に特異な現象でしたが、これこそがきのこの本質に即したビジネスでした。 そして、なんでもあって、なんにもないところにきのこの本質が見え隠れしています。それはとても人間に近く、いや人間そのものなのです。 自分のことを<ひとかどの者>だなんて思っている人は、決してきのこなんぞに目がいくことがないのは見えないものが多すぎるからです。きのこのあっけらかんとした空虚さには、そんな深い意味があるのです。 少なくともきのこに笑われないように生きたいものですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月13日 12時27分56秒
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