イントロ
15日の土曜日、仕事を終えて新快速に飛び乗って終廊時間を気にしながら訪ねた美咲書店のアートステージ567。地下鉄丸太町駅で降りて夷川通り交差点を探し丸太町通りを南下し始めたが、行き過ぎたらしく、何組かの道行く人にたずねても素っ気ない返事で一向らちが明かないと思っていると、手押しの自転車を押しながら友人と歩いてきた女子大生二人が見かねて声をかけてくれ、スマホで調べ「二筋南にいますのでついでだからご案内します」といって20分ほど話をしながらついていった。この二人の間で交わした対話がとても面白く、別れがたい気分になったところで町屋を改造したアートステージに到着。城戸さんとまず目があってしまったのでひとまず画廊へ入り、お礼の挨拶をと思い戸外へ取って返すと黄昏の町並みに二人の影はすでになく非礼きわまりないことになってしまった。この非礼はその後夢にまでみるほどのトラウマとなって私を苛めたが後の祭り。
しかし、アートステージの内部はそんなわだかまりを吹っ飛ばすような時空が広がっていた。
城戸みゆきのHako展は町屋ギャラリーの一階奥の吹き抜けになった会場を箱と見立てて展開されていた。2019年10月制作のため中国の広州滞在時にひらめいた印象を膨らませたインスタレーション作品で、彼女の来し方と行く末を暗示する素晴らしい表現に息を吞んだ。
この素材はすべて赤い電線だという。学生時代に1ケ月かけてまわった中国の旅と現在の中国の電化のすざましい奔流にもまれる劇的な変化の中で、癒しのように残る祭事のランタンや吉祥紋やチャームの数々。そこから想を得たであろう作品が小暗き部屋いっぱいに展開されていた。
水引細工とも思しき吉祥の祝祭紋様と灯る裸電球。なつかしさの中から立ち昇る得も言えぬオーラ。
藝術というものは、所詮うたかたのものである。インスタレーション作品は、さらにジャズの即興演奏とも、あるいはきのことも似て、どんなに鋭くても束の間を意識せざるを得ないものを本質としてもっている。
城戸は人一倍そのことを自覚して創作に没入してきた。導入部には制作の過程をうかがわせるパーツを展示(写真上)。また、その全過程を冊子の形にして(写真下)宇宙大の時空にも匹敵するミニマルな空間に新星誕生のごときアート作品をしばしとどめる試みをつづけてきた。
アートは広い意味ですべて瞬間藝術だが、たまゆらのいのちではあってもしばしとどめたいという作家の情熱とそれを熱望する鑑賞者の期待は、絶対矛盾に満ちたものである。しかし、そのもろもろすべてを余さず作品化し見事に表現しおおせている城戸みゆきの力量には感動すら覚えた。
赤本の『祝祭された風景』blessed landscapeとグレー本のもりたか屋での『reflection2020』
城戸みゆきは、言うまでもなくきのこカルチャーマガジン隔月刊MOOK本「きのこ」の副編集長にして、毎号表紙絵を飾ってくれた現代アート作家である。私の周りにはきのこアーティストは大勢いるが、彼女ほどアートというものの栄光と悲惨をしっかりと見据えた作家はいないと常々思ってきた。
ナカガワ暢さんの個展会場へつながる階段の壁面を飾る写真図像(写真上)は、アイスランド滞在時に「極北のアイスランドには森がない」と現地の人たちがいうのを聞いて、小部屋全体に現地の木々や小枝を集めて森を創り出した作品と聞く。
この作品はグレー本の福島県いわき市平のもりたか屋アートスペースでのインスタレーション作品
「私の表面 四畳半地形図」2020と題されたストッキングの伝線を針と糸でつくろうように組み合わせていく作品。(写真上・下)
きのこの彼方に広がる世界をアートする試みをかくも見事に表現しおおせる力量をもった彼女ほどの作家を私はいまだきのこにかかわる人財の中に見出だせていない。
この2022年の正月は、私にとってはとりわけ刺激的な出だしとなったようだ。同時開催のJiku(軸)展のナカガワ暢さんも城戸に負けず劣らず健闘しているので明日あらためて述べさせていただく。