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カテゴリ:きのこ目の日本史
出雲市斐川町神庭西谷の荒神谷遺跡 私が金属史観という観点からきのこ目の古代史に取り組み出してまもなく出雲の荒神谷で驚くべき発見があった。1984年7月のことであった。これまで頭の中で思い巡らせていたのみの出雲の土地の記憶を辿る旅を駆け足で網膜に焼き付けてきた。ここでは銅剣のレプリカまで配置して発掘当初そのままに保存されていた。 この埋蔵文化財の発見がなければ出雲は記紀神話の虚構の舞台のままに置かれ、いつしか忘れ去られていく運命にあったといえよう。 この低い丘状地から4列にきちんと並べられて総数358本の銅剣が一挙に出てきたのだ。 さらにその数メートル離れた場所で1年後の夏には銅鐸6ケとその横に銅矛16本が並べられた状態で続々と掘り出されいやがうえにも歴史ファンの関心を集めることになった。いずれも全国最多埋蔵量の青銅器が一挙に掘り出され、出雲の神話世界が物証で裏付けられる始まりとなった。 加茂岩倉遺跡 そして12年後の1996年には、隣の加茂町(現雲南市)から入れ子状態であきらかに埋蔵する意図をもって埋められた銅鐸39個が発見された。荒神谷同様いずれも偶然の賜物だった。 私たちが目にする埋蔵文化財としての青銅器は緑青が吹きだして青緑色をしているが、現役時代の現物は赤胴色のまばゆいものでそれは荘厳な印象を与えたことであろう。 大和王権の前方後円墳と異なるステイタスシンボルである四隅突出型墳墓の見事な雄姿が眺められる西谷古墳は、荒神谷・加茂岩倉遺跡から斐伊川を挟んだその西側に復元されている。 これは吉備で創始され出雲で完成されたと言われ、この埋葬様式は出雲の大国主命信仰の伝播と深いかかわりをもつものだ。 この古墳群の一隅には出雲弥生の森博物館があり、前者の遺跡にもそれぞれ博物館が建設され、詳しく情報発信している。 淡路島、徳島の製鉄と祭祀集団による神武東征神話の動機となったと思われる辰砂だが、この王家の墓の木棺下にもびっしりと敷かれている。 今回の出雲の旅は、私の初心時代と重なる荒神谷のビッグニュースと、土地の記憶を今に伝える神社群を出雲のカンナビ山との位置関係の中であらためて把握するためであったので大いに参考になった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月26日 21時59分47秒
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