夢みるきのこ
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出雲大社正面鳥居(二の鳥居) 出雲は大和王権に服属する際にさまざまな密約を交わしたようで、出雲大社の地はもともと出雲西部の巨大豪族神門氏の本拠地であった。この地に出雲大社を築いたことは出雲氏が大和王権の後ろ盾を得て神門氏を押さえ出雲全土を掌握したことを示すものだ。国譲り神話の舞台となった稲佐浜もすぐ西にあることからもそう推理できる。 神社正門に当たる鳥居(ニの鳥居)から勢溜の鳥居(一の鳥居)までは延々と門前通りが続く。 正面鳥居(二の鳥居)から奥へは黒松並木の参道が続き海辺の神社である雰囲気をいやがうえにも高めてくれる。 その松の参道わきにはイケメンの大国主命が渦巻く大波に立ち向かい祈りをささげている像が据えられている。 銅の鳥居(三の鳥居)をくぐると拝殿があり、その脇を抜けると本殿を瑞垣で囲った八足門が真正面に現れてくる。この八足門の奥は一般参詣客は入ることができず、瑞垣の中にはさらに玉垣で囲われた大社造りの本殿がまします。祭神は大国主命。しかし、祭神はなぜかぷいと西を向いており、その目路を限る神社が神魂御子神社(かみむすびみこのかみしゃ=筑紫社)である。 本殿の背後正面の瑞垣の外には素鷲神社(すがじんじゃ)が建てられており、神社配置からだけでも謎が多く、学者たちの興味をひいてきたが諸説あっていずれも確証はえられていない。 天皇家の皇祖神として創出された天照大御神を祀る伊勢神宮が顕世界(目に見える生の側)を統べるとすれば、出雲の素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)は幽世界(身には見えない死の側)を統べる役割を与えられ記紀神話の体系づくりに寄与した。したがって神道では高天原は死穢の世界と無縁なものとされ、もっぱら出雲に死穢の世界を詰め込んだのも大和王権が全国支配を完成させて以来のことである。 今回の旅の目的は出雲の土地の記憶を訪ねるたびであったが、出雲大社と日碕神社(韓竈からかま神社は必須の訪問地であったため割愛)が島根半島西の端の語り部なら東の端には美保神社がある。
祭神は大社造りの右殿に事代主神、左殿には三穂津姫命(大国主の后妃)。大国主命が国譲りを迫られたとき、美保で釣りをしている事代主命に聞いてほしいといったところから釣り竿と鯛を抱くえびすさまとしてアイコン化され全国3385社の総本宮として広く信仰されてきた社である。 この神社の前にひろがる美保関港は隠岐の島をはじめ海運上の重要拠点で、境港と隣接する漁業資源の宝庫。 拝殿は天井が船底を模したつくりになっており壮観である。 神社の鳥居脇には江戸時代中期より北前船の西廻り航路の物産の集積港として栄え、その名残りが青石畳通りとして残されている。 さて駆け足での出雲めぐりもすべて終えての帰途、美保関からしばらく境港方面へ戻った海べりに夫婦岩の標識が目に入ったので立ち寄ってみた。 なるほど海蝕岩の陰陽岩でした。写真を撮っていると仕事帰りに晩飯の一汁にと奥さんから頼まれて若布採りに来ていた同年配のおじさんが足下の磯からひょっこり顔をのぞかせて「この岩は子供のころから見つめて育ったけんど、昔はもっとたくましかったですよ。今は波に削られて、おいらみたいな一物になってしもうて」と嘆いておられました。
「全くご同慶の至りですな」とおじん同士が話し合っていると海鵜がやってきて「なんともみっともない話でんな」と割り込んできました。 出雲の旅でもほかの旅でも、道中はドキドキワクワクで一杯ですが、おしまいはいつも疲れたビーで終わります。今回はこの岩のおかげでさらにさらに疲れました。
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