わが国の80年代バブルは、同盟国・アメリカの舌車に踊らされて、郵政民営化、農協(JA)解体にまで進む勢いでボロボロになっていくが、その80年代のバブルをとらえて<文化と経済>の重ね合わせを実践課題として在野の立ち位置を堅持しながら論理構築した松岡正剛という人物は、平安期の空海にも匹敵するけた外れの傑物である。
その視座の確かさと政財界との距離の取り方は、いずれも見事なもので、それは以前紹介した『国家と「私」の行方』に結実している。彼の来し方、いわゆる自分史はその第14講に詳しい。それによると、ハイスクール時代から早稲田時代の彼は私たち同様迷える仔羊であったのだが、唯一違う所は彼には40代半ばで癌で亡くなった友人・某がいたことである。その友人がトリガー(引き金)となって、その後の彼の人生を決定づけたことが告白されていた。
ヘビースモーカーの彼が、何度も切開大手術をしながらもよくぞ今に至るまで生きながらえて我々への贈り物を次々と生み出しつづけてくれていると思う。
目下、私は無謀にも「きのこ目の日本史」として古代史と苦闘の日々であるが、それは彼の構築したインター・スコアの手法で秦氏たちの歴史を跡付けることであったとあらためて思い至ったことである。
わがきのこ目の手法は、インター・スコアから見れば竹やりとB29(重爆撃機)ほどの差があるが、それは対象となる層が決定的に異なるがゆえに致し方のないことではある。しかし、彼の編集工学の優れているところは、グルーバルからローカルまでを貫徹する方法、すなわちグローカルで普遍的な方法を示し得ていることだろう。
今回、あらためて『知の編集工学』をノートを取りながら再読しているが、垂直思考で権威を保つアカデミーとは全く異なる水平思考で、20世紀末までの知の集大成を、見事に、かつ単独で、成し遂げていることには驚きすら覚える。それにもまして、彼の言語力と理解力には打ちのめされてしまう日々が続く。せめて焦らず自分なりの試歩を続けなければと自らに言い聞かせているところである。