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カテゴリ:ヘテロソフィア・アート
壁面を埋める「Rescued photo July 2018」
太田三郎の作品のもつ訴求力とは、偏えに事件のかけらや断片を拾い集めることに終始して、マスコミが伝える時事ではなくその事件を取り巻く時代そのものを浮かび上がらせることにある。 まず、こちらのコーナーは水没し多数の死者を出した真備町で水に浸かったアルバム、子供の絵、母子手帳などを洗浄して持ち主に届ける活動を続けた折の作品である。 「浮遊・拡散する写真」 こんな写真や絵を水洗いして持ち主に届ける作業の一部が壁面にリプリントしてびっしりと展示されている。 洗浄されたそれぞれの人生の断片は、こうした形で持ち主の元へ届けられたという。 <夜の顔不思議な俳句会>で、時事俳句をつくる人たちに私がその違和をいつも語ってきたことの意味はここにある。 事件に対する自身の小主観や政治的立場をいくら述べても、その事件を取り巻く時代を浮き彫りにさせなくては詩には届かないのだ。 自分の生きる覚悟とは無縁の政治的立場をいくら吠えたてても、私からすればマイルス・ディヴィスの"So What?"(それがどうした)でしかない。 詩とかアートとかいうものは一言も事件を語りはしないが、その核心に切り込む力をもつ。言語芸術は言葉が意味をもつゆえに、芸術の中では想像力の翼を折り、さらに足かせをつけてしまいかねないのだ。そんな最も保守的な言葉という素材を用いるため言語芸術は沈黙の言葉で裏打ちして伝える技術を磨くことになる。 <夜の顔不思議な俳句会>では、その不確かな言葉を用いて詩の言葉を生み出す努力をしているのだ。なぜなら、どんなに保守的であってもアートは究極的には言葉で裏打ちされなければ、作家の意図は明確に次世代へとつたわらないと考えるからだ。アーティストこそ言葉の訓練がもっとも必要な人たちなのである。 それを太田は無言で作品化している。究極のアートは言葉なのだが、言葉は言霊を失い、人々の思惑による垢が付きすぎている。それをこすり落とす作業を通じて言葉の真実に近づけようとする作業こそがアート(術)なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年09月13日 15時37分54秒
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