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2022年09月17日
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カテゴリ:きのこ目の日本史

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 50年間、週1-2度は近辺を通りながら一度も立ち寄った事のなかった崑崙山 昆陽寺に仕事の途中に立ち寄ってきた。山門をくぐると十一面観音をおまつりする本堂、その奥に行基堂があり、そこからさらに奥の森には西国ミニ霊場がしつらえられていて、どん詰まりには鎮守堂があり、広大な寺域が広がっていた。
 ​行基堂
 西国​霊場の札所として今もなお多くの信者が訪れると聞く。この日はそうした行事がなく、珍しく静かな境内が迎えてくれた。今、行基の時代の物語も私の中で煮詰まってきているので、じっくりと対話をしてきた。


 ​行基堂の扁額​

​ 行基塚
 ​この行基塚からずっと奥に鎮守堂があり、ミニ霊場はその両脇の森にちりばめられていて、そのさらに両翼には檀家の墓苑まである。道昭の感化を受けて、土木灌漑事業を大乗の教えの菩薩行とした行基は、官の手が届かない近畿一円のインフラ整備を行い、その労働者たちの憩いの場を50ケ所余り布施所として各地に残した。のちに聖武天皇の多都市構想に応えて、協力した優婆塞(得度せずに出家した修行者)を僧侶とすることを条件に恭仁京、紫香楽、難波京と建設ラッシュの時代を創出した。<力の行基。知の良弁>と言われる所以である。


​ 大師堂の役小角と前鬼・後鬼​
​ その良弁、行基の山林修行者のモデルとなった行者が役小角である。葛城の豪族の裔で賀茂氏につらなり、当麻寺に土地を寄進している。
 奈良時代の庶民生活は文献資料からは見えてこないが、現在と同じく格差は広がっていたが、われわれの想像以上に豊かで経済的に自立していたことが見えてきた。​​​​​​​​
 かくしてようやく行基はんとご対面に相成った。






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最終更新日  2022年09月17日 18時44分07秒
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