味間 補厳寺
10年前、日本全国に散らばった四天王寺楽人と聖徳太子・秦河勝とのつながりを探るため田原本町の味間集落を中心に村屋、秦荘から桜井の向原寺(豊浦寺址)を歩いたが、今回はさらに世阿弥と秦氏との関係を調べる目的をもってその関連地と思われる土地を11ケ所を駆け巡った。
そのへそにあたる寺はまたしても味間の補厳寺である。
世阿弥が30歳の頃、曹洞宗のこの寺で禅を修学したと伝えられている。
世阿弥夫妻の法名がこの寺に残されていたことから一説には70歳を過ぎて佐渡へ島流しとなった世阿弥がゆるされてひそかにもどりここで晩年を過ごしたとも伝えられるがそれはおそらくありえないことと思われる。
さらに秦楽寺。ここは元伊勢伝説の笠縫の檜原神社とのからみで数回訪れているが、近年妹の主人の母親がこの寺の出だと知り改めて訪ねたら、はじめて本堂で副住職の話を聞くことが出来た。
この秦楽寺は、楽戸郷が設置された味間の近い村屋にある村屋坐弥富都比売神社にあったと聞く。そこから天王寺や法隆寺の祭事の際には楽人が参じたという。そののち観世座が分かれてこの地に移ったとされ、村屋の秦楽寺は新楽寺と寺名をあらためたと聞く。
糸井神社 ここでは宮司さんの特別な許可を得て拝殿にあがらせてもらい貴重なおかげ踊りの絵馬をまじかに鑑賞することができた。
結崎にある糸井神社は呉服・綾服(くれはとり・あやはとり)神を祀る神社であるが、観世流(結崎座)の能楽とは縁が深く、祭神が秦氏に所縁のあるアパレル業界の神であることを確認した。この神社のわきを流れる寺川の川向こうには面塚があり、あるとき大音響とともに能面とねぶか(ねぎ)が天より降ってきた言い伝えが残されている。
村屋神社参道
世阿弥の参学した補厳寺にほど近い村屋神社。元・秦楽寺があったとされる。村屋坐弥富都比売(むらやにますみふつひめ)のみふつは御ふつで物部の布都の神が原義であろう。
聖徳太子・秦氏の痕跡を訪ねると必ず物部の匂いが濃厚に立ち込めるのがうれしい。蘇我物部の戦いのあと、この地に守屋の皇子をかくまったという伝承があり、今も守屋姓の家が代々宮司をつとめてきている。
村屋坐弥富都比売神社
今回の旅での私の最大の収穫は、この村屋神社でスパークした。壬申の乱に際しての伝承からは物部氏、大海人皇子と高市皇子とのつながり、さらにこの守屋の地と三輪山の大神氏が深く関わっていることなど、10年越しにあれこれ悩んできた空白部分が一挙に火花を放って結びついた。コロナ禍で守屋宮司の関係者が陽性となったためお会いする事はできなかったが、きのこの菌糸のネットワークは思いがけないところで私に重要な示唆を与えてくれる。この10年間で得た新たな知識の様々な断片に足下の菌糸体が土地そのものの記憶をからませてくれ、面白いように整理されていく。
村屋神社には10年前には見過ごした物部神社も整備されて社叢の杜に建てられていた。
今回、斑鳩の龍田神社別宮の坂戸座(金剛流)、この写真の桜井市外山(とび)の宗像神社脇にある宝生流発祥の地の碑、金春屋敷跡の秦楽寺、結崎の糸井神社と面塚に見る結崎座(観世座)をすべて回った。
取るに足りない10年越しの悩み事でも、持ち続けることで今回のようにラッキーな出会いがあり、禁足地であったところへ立ち入ることもでき、格段の進展を遂げることもあるのだ。「継続は力なり」ということをしみじみ感じる旅であった。
次回の「月のしずく」では、10年前に田原本を訪ねた折のこと、去年同地で鏡作神社6座を巡った際に考えたこと。そして今回の大和申楽四座の旅をチャンプルーにして面白い仮説を提示したいと思っている。