奈良県川西町・結崎の面塚あたりを流れる寺川
古代には湖だった奈良盆地は、四方を囲む山辺の水際から人々は住み始め、やがて幾重にも川筋が網の目状に出来上がり、湖水の水はすべて盆地を二分して貫流する大和川へと注がれ亀が瀬溪谷から河内側へと流れ落ちて行った。盆地の中心地となる今の田原本町辺りには早くから湿原がひろがり、弥生時代に入ると稲作が導入され、人が住み始め集落ができていった。それが今の唐古・鍵遺跡跡である。
田原本町以南から大和川へとそそぐその川筋の主なものを取り上げると大阪側から葛木川(葛城氏の本貫地)、蘇我川(蘇我氏の本貫地)、飛鳥川(推古・天智・天武の王城の地)、寺川(大和秦氏の密集地)、初瀬川(古代都市纏向と三輪王朝の地)、布留川(物部氏の本貫地)となる。
私はこの中でも鏡作神社の密集地の寺川に注目してきた。古代人は、少なくとも馬が導入されるまでの数百年はこれらの河川のネットワークを利用して水上交通によって結ばれていったようだ。
私達がムックきのこの旅で法隆寺にはじまり大和のきのこを訪ねる旅として10数年をかけて探訪してきたのは、これらの河川とそこに住む人たちの統合の象徴たる聖地の神社仏閣を訪ねる旅でもあった。そこで出会った二大勢力は物部氏と葛城氏、さらにその末裔を任ずる蘇我氏であり、この古代の二大勢力を結びつけ支えていたのが彼らよりさらに大きな勢力であった秦氏であったことに観阿弥・世阿弥を訪ねる旅でようやくやっと理解できた次第である。
秦人たちは氏族と一括されたことから多くの誤解が生まれたが、彼らは血縁集団から成る氏族とは異なり、職能で結びついた血縁関係の希薄な擬制的な集団である。したがって貴族以外はすべて奴隷であった身分制度の厳格な時代においては、秦氏たちは正史に登場することはきわめて稀であった。
しかし、彼らはそんな身分制度とは無縁に「経済」の語源である「経世済民」の字義通りに技術力とその生産能力を武器として民を救済する真の主戦力となって地方に浸透していった。彼らは目には見えぬ形で、天皇家と庶民をしっかりと結びつける媒介者的存在となったのである。
私が生物界におけるきのこの役割、すなわち地球における菌類の役割を調べる内に古代から中世における秦氏の役割に気づいたのはいわば必然でもあった。微生物の中で唯一われわれの目にも見えるきのこを生じる真菌類は、日本史における秦氏そのものであると確信したからである。
その秦氏たちが信奉したものがインドから中国、朝鮮半島を経る間に道教や景教、拝火教、ラマ教などの様々な国々の宗教バリエーションを巻き込みながら伝わった仏教であった。
そして、大和盆地を皮切りに、物部氏や葛城氏、蘇我氏などの有力な豪族に随伴し、彼らの版図拡大と同調する形で全国津々浦々に勢力を広げていったのである。やがて彼らは嵯峨野の桂川流域に入植し、京都の太秦を中心に秦氏の本宗家を形成していく。それが蘇我氏の時代に頭角を現した聖徳太子とペアを組んだ治水灌漑事業に長けた葛野の秦氏・河勝集団であった。
秦氏とは、誤解を恐れずに言えば、国土開発と文化振興の主流を担って活躍した徹底した殖産興業の商工農民からなる技能集団だったのである。
彼らがその精神的支柱としたのは、新羅由来の道教と不可分な在家仏教の神であった。その彼らが渡来のはじまりより思い描いた夢は、白鳳期、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町と実に息の長い地道な活動によりそれぞれの時代のスーパースターをパトロネージュすることで徐々に実現していった。彼らがパトロンとなって世に送り出した人物こそが東大寺の良弁であり、空海、最澄であり、法然、親鸞、日蓮であり、観阿弥、世阿弥や室町の阿弥を名乗る阿弥衆・同朋衆の多くであった。それがひいては仏教文化を基調とする世界に類のない文化の基層を築きあげていったと私は考えている。
奈良県田原本町法貴寺の法起寺跡を流れる初瀬川あたりから眺めた三輪山
この春からは非力をかえりみず、そんなことの断片を様々な形で書きとどめていきたいと思っている。