猛暑を象徴するかのように野を覆っていた葛も花をつけはじめた。この花をみると奈良高原の晩夏を思い出す。奈良県北部はわれわれに馴染みのある大和三山のある奈良盆地と同じくらいの面積をもって春日山以東にひろがる奈良高原があり、こちらは交通の便が悪く訪れる人はごくわずかだ。その奈良高原が葛の花で覆われる時期にそこでしか見られない珍しい石仏を方々探してかけまわったことがあった。その日も人っ子ひとりとして見かけなかった。ダム湖の脇の山道を攀じると小さな空き地に出てそこの石仏のわきに洞窟がぽっかり口を開けており昼間なのに大コウモリが数十尾飛び交っているのを目撃したり、巨岩累々たる谷を登ったりしたことが、辺りを覆う葛の花とともに鮮明に思い出されるのだ。深い淵の向こうに摩崖仏が刻まれているのに遭遇したのもこの旅でのことだった。が、それらはなんでもない鄙の風景に溶け込んでいて、「ここ」と「そこ」というように場所を特定して思い出されることは決してない、白日夢のような体験だった。もう一度記憶を奮い起こしながら訪ねてみたいと思っているが果たせるだろうか。私の人生の中でも特異な一日として葛の花とともに蘇ってくる幻影のような映像。どこといって特別のものは何一つないのに桃源郷のように現われ、私を郷愁のようなやるせない感情で満たしていく映像。それが葛の花を見る刹那襲ってくるのだ。